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冨士井 金雪(ふじい かねゆき、1943年10月10日 - 1990年6月13日)は、三重県度会郡二見町(現・伊勢市)出身の元ボクサー、ボクシング指導者、高校野球指導者。 == 来歴 == 中学卒業後に神鋼電機に勤めながら定時制の伊勢実業高等学校(現・三重県立伊勢まなび高等学校)に通ったが、2年の時に中退し、名古屋市のボクシングジムに入る。だが、わずか2年で伊勢実業に復学し6年かけて高校を卒業した〔甲子園高校野球人名事典253-234P、森岡浩、東京堂出版、2004年、ISBN 978-4490106503〕。その後、国士舘大学に進み、陸上競技部にも在籍した。しかし、元来はボクシング選手だった。26歳で大学卒業後、三重県内の小学校や中学校で教員経験を積み、1974年、三重県内でボクシング部のあった三重県立明野高等学校のボクシング部監督に就任。地元で開催された1975年の三重国体では、ボクシングの監督として明野高校のメンバーを中心に結成されたボクシング三重県代表チームを優勝に導いた〔三重県高校野球史(時習館と甲子園) 〕。 ボクシング部での指導実績が買われ、野球のプレー経験がない〔高校野球以上の野球監督としては極めて希である。他には明治大学硬式野球部の黄金時代を築いた島岡吉郎(応援団出身)や、2005年夏の甲子園に茨城県立藤代高等学校を初の甲子園出場に導いた張替剛次(吹奏楽部出身),2013年2月から2015年3月までPL学園高等学校野球部監督を務めた正井一真(但し、部員の暴力事件が原因で河野有道監督が退任した代理である。2014年夏、激戦区で有名な大阪府予選で決勝まで進んだ〈大阪桐蔭に1-9で敗れ、甲子園出場ならず〉。)、正井の後任で2015年4月からPLの監督を務める草野裕樹(但し、野球部長を務めた経験あり)が野球未経験の野球監督となっている。尚、日本プロ野球では野球未経験の野球監督は、これまで一人もいない。〕ままに明野高校の野球部監督に就任。就任3年目のに三重大会で名張桔梗丘高校を破り、甲子園出場を果たした。以後、昭和が終わるまでの8年間に春3回,夏5回の出場を果たし、黄金時代を築いた〔報知高校野球2008年7月号95-96P〕。 監督時代最大のハイライトは、1986年夏の甲子園で優勝候補筆頭だった池田高校(徳島県)を、初戦で破った事である。当時の池田高校は1986年春の甲子園を制覇し、春夏連覇の期待がかかっていた。加えて猛打で有名であり、経験豊富な池田(この大会まで春2回,夏1回の優勝)と経験の乏しかった明野(この大会まで春1勝のみ。夏は3回出場していたが、いずれも初戦敗退)では、池田の勝利を予想する声が圧倒的に多かった。ところが予想を覆して、明野も池田のお株を奪う猛打〔この年の明野高校は三重大会決勝で名張高校を16-0(現在も三重大会決勝での最多得点・最大勝差試合記録である。)で破るなど、例年にない猛打のチームとして知られていた。〕で7-2で池田を破ったのである。予想外の勝利に、一塁側の明野高校の応援席は狂喜乱舞した。この大会ではその後、2回戦で甲西高校(滋賀県)に10-2と大勝し、3回戦で強豪・松山商業(愛媛県)との打ち合い〔松山商業はこの大会の準決勝・浦和学院戦で11連続安打(2014年現在も大会最多記録)という猛打を打ち、14-3で大勝している。またこの大会では準優勝だった。〕の末に5-8で敗れたが、明野高校の甲子園での最高成績を記録した。この試合で控えだった大道典良(に典嘉として登録名を変えた。南海,ダイエー,ソフトバンク〔南海ホークスに在籍したことのある最後の現役選手として有名。また、球団名が「福岡ダイエーホークス」だった期間(1989年 - 2004年)中、一度も移籍することなく在籍を続けたのは選手・コーチ・監督を含め大道だけである。〕→巨人)とこの試合の翌年に入学した広沢好輝(ヤクルト→阪神)が冨士井の教え子で、プロ野球選手となった。 長いもみあげと角刈りの髪型、面長の風貌、若手の熱血監督(甲子園出場当時36~44歳)だった事から「ルパン」の愛称で親しまれた。農業高校(明野高校には1980年代当時、農業学科と家庭学科しかなかった)というハンディを背負いながら、小学校、中学校の教員時代に培った人脈を活かし、選手獲得には恵まれていたと伝わる。 だが、黄金時代は突然終わりを迎えた。6月9日、突如として部員の就職や進学、レギュラー起用などを巡って、父母から金銭を受け取っていたという嫌疑が浮上し、業務上横領罪の疑いで、三重県警捜査二課に任意で事情聴取されたのである。銀行口座のお金の中身について厳しく追及され、取り調べの最中に膝や胴などを蹴られる暴力を受けていた。そして4日後の6月13日、自宅近くの「津リバーサイドゴルフクラブ」(津市栗真町屋町)にあるネット支柱で、電気コードで首を吊って自殺しているのが見つかった〔自殺DB10 昭和60年代~平成一桁代 〕。まだ46歳の若さであり、早過ぎる死に県内はもとより全国からも非常に惜しまれた。 冨士井亡き後の明野高校野球部は急速に弱体化し、2014年現在も甲子園出場は果たせていない(三重大会で決勝に行ったのも、1996年の1回のみ〈海星高校に1-7と大敗。この時のエースは小山伸一郎(中日→楽天)〔冨士井亡き後、現在までプロ入りした唯一の選手である。〕だった〉。また2011年には津高校に0-2で同校初の三重大会初戦負けを喫している。)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「冨士井金雪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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