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富士錦 猛光(ふじにしき たけみつ、1937年3月18日 - 2003年12月17日)は、山梨県甲府市出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。本名は一宮章(旧姓は渡辺)。身長175cm、体重136kg。得意手は突き、押し。最高位は東小結。長男はプロレスラーの一宮章一。次男は元横綱朝青龍マネージャーの一宮章広。その風貌と優しく穏やかな性格から「平和ちゃん」の愛称で親しまれた。〔ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』25ページ〕 == 来歴 == 小学生の頃に相撲を初め当初は嫌々だったが強くなり中学生の時には県大会で優勝、高校1年で国体に出場するなどの実績を残した。 1952年(昭和27年)夏に髙砂一門が巡業に来た際に勧誘され後に4代目髙砂親方(元横綱前田山)から直々に勧誘されて入門を決意、1953年(昭和28年)3月場所初土俵。 四股名は入門当初に目を掛けてくれた髙砂部屋の横綱東富士の『富士』を頂戴して命名した。立合いに頭で当たっての突き押しが強かったが四つに組むと脆かった。 1959年1月場所新入幕。この場所は5勝10敗と大敗し十両に陥落。しかし1場所で返り咲きそれ以降は平幕上位に定着する。1963年(昭和38年)の7月場所中に母を亡くしたが奮起し、不振とはいえ2大関(豊山と栃ノ海)を倒して9勝6敗の成績を挙げ殊勲賞を獲得した。 1964年(昭和39年)、母の1周忌を済ませて臨んだ7月場所は誰しもが驚く絶好調、大鵬〔大鵬の大関時代までは富士錦の3勝5敗と健闘していたが、大鵬の横綱昇進後は22戦全敗で1度も勝てなかった。〕、柏戸の二横綱が休場不在とはいえ、豊山、佐田の山ら4人の大関をさしおいて14勝1敗の好成績を挙げて優勝した。上位での番付運に恵まれず小結で勝ち越すこと3回、さらに14勝1敗の好成績での優勝までありながら関脇にはなれなかったが実力は関脇と認められている。史上初の最高位が小結の優勝力士になった。〔ほかに若浪がいる。なお、大蛇山は平幕止まり。〕 1968年(昭和43年)11月場所は1勝14敗と大敗して現役を引退、年寄西岩を襲名。後に尾上と名跡を改め、髙砂部屋付き年寄として高見山らを厳しく指導した。 1988年(昭和63年)に5代目髙砂(元横綱3代朝潮)が亡くなると6代目髙砂浦五郎として髙砂部屋を継承した。師匠としては先代から引き継いだ4代朝潮は既に衰え、朝潮の引退後小錦は横綱目前、水戸泉は大関を狙える所まで進みながら、どちらも膝の故障で果たせず番付を下げるなど力士の育成に苦労したが、直弟子の小結・闘牙、十両・泉州山など個性的な力士を輩出した。 しかし、2000年(平成12年)に闘牙が交通事故(人身事故)を起こしたことで師匠としての責任を問われ降格、減給処分を受けた。この頃から体調が優れなくなり、入退院を繰り返すようになった。 2002年(平成14年)に元大関:4代朝潮の若松親方と年寄名跡を交換して部屋を譲り3月場所後に停年退職。退職後も髙砂部屋や一門の東関部屋に顔を出し、稽古を視察するなど元気な姿を見せていたが、2003年(平成15年)12月17日に慢性腎不全で死去した。。 墓石には「六代目 高砂浦五郎」と刻まれている。 1994年(平成6年)、東京都台東区に髙砂部屋が入った自宅マンションを建てたが、2002年(平成14年)の若松部屋との合併により、髙砂部屋は若松部屋の建物に移転する形となったことから、相撲部屋としては空き家になった。そのため、現在では独立間もない若手の部屋持ち親方に部屋を貸している(現在は千賀ノ浦部屋が入居)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士錦猛光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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