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富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。表記は一般には富樫と表記するが、地名として富樫郷など富樫と書き、姓氏としては冨樫が正しく、守護大名冨樫氏は明確に使い分けていた。 == 概要 == 代々加賀国に勢力を張り、加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる八介の一つの富樫介を称した一族である。家紋は天帝(北極星)と北斗七星への信仰(妙見信仰)から八曜紋を用いる。替紋として鹿角紋。 現在の野々市市に館を構えていた。『野々市じょんから』は、富樫氏の治世を称えた17番まで歌詞のある民謡である。勧進帳で有名な富樫左衛門(富樫泰家)は、この富樫氏の人物である。 富樫高家が、1335年(建武2年)、加賀国の守護職につくが、加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定であった。1387年(至徳4年)に富樫昌家が没すると、管領斯波義将が実弟の義種を加賀守護職に任じ、その没後はその息子の満種に継がせるなど30年近くにわたって富樫氏は守護職を奪われていた。だが、将軍足利義持の側近である富樫満成が1414年(応永21年)に斯波満種を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の富樫満春(昌家の甥)に与えられた。 1418年(応永25年)に満成は有力守護との政争に敗れて殺されるが、満春が満成の地位を継いで加賀一国の守護職となった。以後、富樫政親が1488年(長享2年)、高尾城で加賀一向一揆に攻め滅ぼされる(長享の一揆)までが富樫氏の加賀国支配時期である。政親が死んでからは、一揆により名目上の守護富樫泰高が担ぎ出された。 その後、泰高の孫・富樫稙泰が本願寺の内紛と絡んで発生した大小一揆で小一揆に加担して敗れ、守護の地位を追われて富樫家は更に衰退した。元亀元年(1570年)に稙泰の次男富樫晴貞が織田信長と組んだため、一向一揆に討ち取られた。後を継いだ晴貞の兄・泰俊も天正2年(1574年)に討ち死に、生き残った泰俊の子家俊は佐久間盛政に仕え、後藤弥右衛門と改名しながらも富樫家を存続させた。子孫は加賀藩の十村肝煎の役目を明治維新まで受け継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富樫氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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