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冨田 勝(とみた まさる、1957年12月28日 - )は、日本の生命科学者、計算機科学者。慶應義塾大学環境情報学部教授、慶應義塾大学医学部兼担教授、慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長。ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(株)創業者・取締役。Ph.D.(情報科学)、工学博士、医学博士。父は作曲家の冨田勲。 言語処理や人工知能を専門としていたが、後に生命科学に転じ、細胞シミュレーションソフトウェアE-Cellや、CE-MSによる新規のメタボローム測定法等を発表。システムバイオロジー研究・メタボローム解析の分野で第一人者となった。 NHK教育テレビ『サイエンスアイ』のレギュラーコメンテーターを務めていた。カーネギーメロン大学准教授時代はアサヒスーパードライのテレビCMに出演していた。 == 人物 == 1957年、作曲家である冨田勲と明子(歌手本間千代子の姉)の長男として生まれる。慶應義塾大学医学部名誉教授であり医学部長を務めた冨田恒男、および同大学医学部客員教授の冨田稔は親族である。 ;学生時代 慶應義塾幼稚舎に入学し、普通部、高等学校を経て、同大学工学部数理工学科へ進学。大学在学中に「Apple漢字システム」を作成し、パソコンで漢字出力できる世界初のシステムを開発した学生として話題を集めた。慶應義塾大学卒業後、カーネギーメロン大学コンピューター科学部へ進学。ノーベル賞受賞者であるDr. ハーバート・サイモンの指導を受け、機械学習に関する研究に従事した。学位論文のテーマであるGLR法(後に冨田法ともよばれる)に関する研究成果は〔Tomita M. (1984). "LR parsers for natural languages". COLING. 10th International Conference on Computational Linguistics. pp. 354–357.〕、米国立科学財団大統領奨励賞の受賞対象となり、レーガン大統領より表彰されている。また、通常5年以上かかる同大学の大学院コースを4年で早期修了するなど、優秀な成績を収めている。 ;生命科学への転身 1990年、相磯秀夫前慶應義塾大学環境情報学部長より新キャンパスへの誘いを受け帰国し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの教員となった。この当時より、コンピューター科学者が何年かけても実現できないような高度な知能システムを、たったひとつの細胞から作り出してしまう「生命のメカニズム」に興味を持ちはじめる〔SFCの革命者ーゲームプログラミングの先に、生命の神秘の扉があった 〕。分子生物学を一から勉強することを決意し、教員の立場でありながら慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程に入学(1994年)し、当時同大学の医学部教授を務めていた清水信義の指導を受け、医学博士を取得した。日本において現役の教員が学生として再入学するのは前例のないことであり、様々な苦労があったとのちに語っている〔SFCの革命者ーゲームプログラミングの先に、生命の神秘の扉があった 〕。研究者が複数の専門分野を持つこと(ダブルメジャー)の重要性を説いている〔大学教授対談シリーズ『こだわりアカデミー』1994年2月号〕。 ;現在の研究 1997年、細胞の系全体としての振る舞いを解析するための汎用細胞シミュレーションソフトウェア「E-Cell 」を発表〔Tomita M. et al. (1997) "E-CELL: Software Environment for Whole Cell Simulation." Genome Inform Ser Workshop Genome Inform, 8:147-155. 〕。"細胞シミュレーションのパイオニア的研究"として、日本IBM科学賞などを受賞している〔日本IBM科学賞 歴代受賞者一覧 〕。その流れの中で、2001年には "IT主導のバイオサイエンス" という理念を掲げ、細胞シミュレーションを主軸とした大規模な生物実験施設を擁する慶應義塾大学先端生命科学研究所 の創設に携わり、所長に就任した。その後、メタボローム、プロテオーム、トランスクリプトームを始めとするマルチオミクス研究に注力し、特にメタボローム解析の分野においては、キャピラリー電気泳動-質量分析計(CE-MS)を用いた新規の測定法を開発するなど、先駆的な研究成果を上げている。また、国際メタボローム学会 の理事を務め、第一回会議を日本に招致するなど、本分野の火付け役となってきた〔『毎日新聞』2007年6月21日〕。これらの功績が高く評価され、2009年には同学会より功労賞を授与されている。日本人では唯一の受賞であった。 ;教育への取り組み 高等教育に対して独自の理念を持っており、"学生に早い段階で先端研究に触れてもらうことは、基礎知識、基礎技術習得のモチベーションを上げ、高い教育効果がある" という考えに基づき〔生命と情報 (2005) 湘南藤沢学会〕、大学の研究室に学部一年生から所属することを推奨している。また、環境情報学部長時代には、同学部の特徴的な入試形態の一つであるAO入試制度の抜本的な改革などにも取り組んでいる〔おかしら日記 2007年9月20日 〕。その他、大学の研究機関に高校生の研究助手を採用するなど、斬新なプログラムも積極的に導入している〔『朝日新聞』2009年5月11日〕。さらに、全国の高校生が大学の研究所に泊まり込んで先端研究を体験できる「慶應サマーバイオキャンプ」なども企画/運営している〔『読売新聞』 2006年8月12日〕。 ;起業活動 2003年に「ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)」を創業。2013年に東証マザーズに株式上場を果たした。山形県鶴岡市に本社を置く唯一の上場企業となった。 2007年に冨田研究室の学生らが「スパイバー」を創業した時は技術顧問として支援した。スパイバー社は、2013年に人工クモ糸の量産工場を建設、2014年には内閣府の「革新的研究開発推進プログラム」に採択された。 ;スポーツ 高校時代は馬術部に所属し、国体2回出場、関東大会個人総合準優勝の成績を残している。スキーでは検定一級を取得している。また渡米中は、タッチフットボールに熱中したことを自著に綴っている〔『ゲーム少年の夢』 冨田勝著〕。日本にタッチフットボールのルールを持ち帰った人物の一人でもあり、1992年に日本タッチ・アンド・フラッグフットボール協会(JTFA) を設立し、監事を務めていた。鳩山由紀夫首相が同協会の会長を務めていた時期もあり、タッチフットを介した二人の交遊が記録されている〔『日経新聞』2002年3月1日朝刊〕。2011年より、慶應義塾大学体育会ソッカー部の部長を務める。第60回全日本大学サッカー選手権大会で3位に入賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「冨田勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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