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冬島泰三 : ミニ英和和英辞書
冬島泰三[ふゆしま たいぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふゆ]
  1. (n-adv,n-t) winter 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  
: [み]
  1. (num) three 

冬島泰三 : ウィキペディア日本語版
冬島泰三[ふゆしま たいぞう]

冬島 泰三(ふゆしま たいぞう、1901年(明治34年)6月2日 - 1981年(昭和56年)12月24日冬島泰三 、''raizofan.net'', 2009年10月15日閲覧。〕)は、日本の映画監督脚本家である。本名は前出 小四郎(まえで こしろう)〔、脚本家デビュー時の筆名は前出 胡四朗(読み同)〔。
== 人物・来歴 ==
1901年(明治34年)6月2日京都府京都市の酒造業の家に「前出小四郎」として生まれる〔。
旧制・大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)機械科を中途退学して〔、京都大学機械科助手となる〔。1920年(大正9年)前後に阪神電気鉄道に入社〔、同社の沿線の兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の同県西宮市鳴尾)に住んでいた佐藤紅緑に師事した〔。当時の佐藤の書生にのちの映画プロデューサー竹井諒がいた〔。
1924年(大正13年)、佐藤が東亜キネマ甲陽撮影所に招かれて脚本部長に就任する〔と、冬島も入社し、同部に配属された〔。「前出胡四郎」の名で執筆した脚本が採用されて細山喜代松が監督し、1926年(大正15年)、脚本家としてデビューする〔#外部リンク欄、「前出胡四郎」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月15日閲覧。二重リンクを省く。〕。同年、京都の等持院撮影所に異動になり、石田民三広瀬五郎に脚本を書いた〔。東亜キネマでは10本のオリジナルを含む13本の脚本が1927年(昭和2年)までに映画となった〔。
同年、衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟に参加し〔、「冬島泰三」をはじめて名乗る。4本のオリジナルを含む8本の脚本が採用され、いずれも衣笠が監督した〔#外部リンク欄、「冬島泰三」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月15日閲覧。二重リンクを省く。〕。『鬼あざみ』はフレッド・ニブロ作品を翻案したもので、ニブロが原作にクレジットされている〔。同年中に阪東妻三郎が主宰する阪東妻三郎プロダクションに参加、安田憲邦が監督した市川松之助主演作『降魔』をオリジナルに書き下ろし、翌1928年(昭和3年)には、助監督を経験せずに〔、自らが書き下ろしたオリジナル脚本をもとに、梅若礼三郎主演作『任侠五十三次』で監督としてデビューした〔。
衣笠作品も阪妻プロ作品も松竹キネマ(現在の松竹)が配給していたことから、同年のうちに松竹下加茂撮影所に移籍した。同撮影所入社第1作はオリジナル脚本による阪東寿之助主演作品『夜の裏町』であった〔。次作は林長二郎(のちの長谷川一夫)主演作『鳥辺山心中』で、以降、長二郎主演作を連打した〔。1930年(昭和5年)には、同年のヒット作『何が彼女をさうさせたか』に代表される「傾向映画」、『赭土』をオリジナル脚本で監督した〔。翌1931年(昭和6年)、二度目の独立を果たした月形龍之介月形プロダクションの第1作、直木三十五原作のトーキー作品『舶来文明街』を監督した。冬島の初のトーキーであった〔。
1932年(昭和7年)には、尾上菊太郎の主宰する尾上菊太郎プロダクションに移籍、大衆文芸映画社との提携によるサイレント映画流転の雁』を監督した〔。同プロダクションでは7本を監督し、いずれも新興キネマが配給した〔。1933年(昭和8年)、松竹下加茂に戻った。1941年(昭和16年)公開の『元禄女』で監督作は途絶える。翌1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開戦による戦時統合で新興キネマ、大都映画、日活の製作部門が合併して大日本映画製作(のちの大映)が設立されたが、冬島は、同社の大映京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)で森一生が監督した『大阪町人』の脚本を書いた〔。
戦後第1作は、1949年(昭和24年)、新演伎座が製作した長谷川一夫主演作『足を洗った男』であった〔。新演伎座で合計5本を監督し、1950年(昭和25年)末に伊藤プロダクション製作、新東宝配給の『女左膳 鍔鳴無刀流の巻』を監督し〔、1951年(昭和26年)からは大映京都撮影所で時代劇を撮る。松竹京都撮影所宝塚映画での時代劇を手がけつつ、1954年(昭和29年)に新芸プロダクションで撮った美空ひばり市川雷蔵主演作『歌ごよみ お夏清十郎』を機に、新東宝で1955年(昭和30年)に6作を監督した〔。1956年(昭和31年)からの2年間は日活で監督作を手がけた〔。1958年(昭和33年)、テレビ映画に進出、日本テレビの「ヤシカゴールデン劇場」の『冬の晨』を監督した。1960年(昭和35年)には東映テレビ・プロダクションで「第二東映」配給作品を手がけた〔。以降、映画の監督作はない。1960年代はテレビ映画の脚本に専念した〔。
1981年(昭和56年)12月24日に死去した〔。満80歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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