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冷泉氏(れいぜいし)は日本の氏族の一つ。 == 概要 == 本姓は多々良氏。大内氏の支流にあたる。嘉吉年間、豊前国企救郡小倉城に冷泉五郎高祐(たかすけ)ありという〔太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第3巻』(角川書店、1934年)6567頁参照。〕が、実際には大内弘世の庶子・弘正(ひろまさ)の七世の孫・興豊(おきとよ、大内義興の家臣)が母方の冷泉家の家号を冒して、冷泉を名乗るのが初見で、高祐の例はまた別系統か。興豊の父・義豊(よしとよ)の代に周防国玖珂郡祖生郷(現在の岩国市)に住むという〔吉成勇編『日本「名家・名門」総覧』(新人物往来社、1997年)400頁参照。〕。 興豊の子・隆豊は大内義隆に仕えて安芸守護・武田氏の旧城佐東銀山城主に任ぜられるなど重用されるが、義隆と対立を深めた周防守護代の陶隆房が叛旗を翻して義隆を攻めると、隆豊は義隆を守って抗戦し討ち死にした。隆房から名を改めた陶晴賢は、次期当主に義長を擁立し大内氏の家政を牛耳ったが、隆豊の遺児・元豊は弟の元満とともに叔父(隆豊の弟)の吉安豊英に連れられて安芸国国人であった平賀氏隠居の平賀弘保の下に匿われた。 元豊らは成人後、晴賢を倒した毛利氏の家臣となり、九州攻略の武将として門司城代に任ぜられたが、桂元親、赤川元吉とともに豊後守護の大友氏に攻められ討ち死にする。その後、冷泉氏の家督と門司城代は弟の元満が継いだ。元満は足利将軍家の御一家にして毛利氏の姻戚であった渋川義満の婿となり、天正20年(1592年)の文禄の役では朝鮮渡航に従軍した。帰国後の文禄3年(1594年)には出雲国仁多郡亀嵩城主に起用されるなど重用されたが、慶長2年(1597年)の慶長の役で再び朝鮮に渡り、蔚山城の戦いで朝鮮軍の襲撃を受け、同僚の阿曾沼元秀ともども討たれた。その後は遺児の元祥が家督を継ぎ、子孫は長州藩士となった〔。 幕末期には志士として倒幕のために国事に奔走した冷泉五郎綏豊らの他、幕府恭順のために倒幕派と対立し命を落とした冷泉太郎兵衛らを輩出した〔太田亮前掲書角川書店、1934年)6567頁及び明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)310頁、312頁参照。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「冷泉氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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