翻訳と辞書
Words near each other
・ 冷泉為秀
・ 冷泉為章
・ 冷泉為系
・ 冷泉為紀
・ 冷泉為純
・ 冷泉為経
・ 冷泉為輔
・ 冷泉爲紀
・ 冷泉院
・ 冷泉隆房
冷泉隆豊
・ 冷浴
・ 冷浴室
・ 冷浸
・ 冷浸(法)、浸軟、離解
・ 冷浸法
・ 冷涼
・ 冷涼地
・ 冷淡
・ 冷淡無情


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

冷泉隆豊 : ミニ英和和英辞書
冷泉隆豊[れいぜい たかとよ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [れい]
 【名詞】 1. cold 2. cool
冷泉 : [れいせん]
 (n) cold mineral spring

冷泉隆豊 : ウィキペディア日本語版
冷泉隆豊[れいぜい たかとよ]

冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ)は、戦国時代武将大内氏の家臣。本姓多々良氏。家系は大内氏の支流で、父・冷泉興豊(おきとよ)の時に母方の冷泉家の家号を称して冷泉氏を名乗った(後述の系図を参照)。
== 生涯 ==
永正10年(1513年)、冷泉興豊の子として誕生。
早くから周防国戦国大名大内義興に仕え、その死後は子の大内義隆に仕えた。はじめ義隆から偏諱(「隆」の字)の授与を受けて隆祐(たかすけ)、のちに父の一字を取って隆豊と名乗った。大内氏の水軍を率いる立場にあり、大永7年(1527年)には安芸国に進出して仁保島国府城で戦う。
天文10年(1541年)には安芸武田氏の居城であった安芸佐東銀山城主となる〔冷泉隆豊 - コトバンク〕。天文11年(1542年)、義隆に従って尼子氏出雲国に遠征、月山富田城を包囲するも国人衆らの裏切りにより、全軍撤退した(月山富田城の戦い)。隆豊は、義隆の養子大内晴持が乗る船を手配したが、晴持は撤退中に溺死している〔毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)〕。翌年は伊予国に進出。安芸国人白井房胤賢胤の父)らとともに、天文15年(1546年)2月に平智島を、翌16年(1547年)5月には中途島を攻めた(安芸府中町史〔白井房胤 - 戦国日本の津々浦々〕)。
しかし、月山富田城の戦いの敗北によって、主君・義隆は文弱に走り、大内家中は相良武任らの文治派と陶隆房(のちの晴賢)らの武断派に別れ、激しい対立が起きる。対立が深刻化すると、両者の暴発を回避すべく、その仲介に奔走するも不首尾に終わった。隆房謀反の噂が山口の街に広がると、陶隆房の誅殺を義隆に進言するも容れられることはなかった。
天文20年(1551年)、陶隆房がついに決起。隆房は周到な根回しを行っており、文治派以外では、義隆に味方する者はほとんどなかった。義隆は山口を脱出し、石見国吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず、長門国大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。その最期は壮絶なものだったと伝えられ、攻め寄せる敵兵が恐れを成すまで戦い、火をかけた経蔵に入って辞世を詠んだ後に十文字に割腹内蔵を天井に投げつけて果てたと伝わる〔室町殿物語 - 国史研究会(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕〔大寧寺ものがたり (9) 義隆長門に奔る - 大寧寺公式サイト〕。また、隆豊が籠もった経蔵に続く坂道は冷泉坂と呼ばれている〔山口県史跡大寧寺境内墓地整備基本計画 B群 経蔵跡・遊仙窟 - 大寧寺公式サイト〕。
*辞世の句 ''「みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず」''
武勇に秀でていただけでなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われており、その忠臣ぶりは、高く評価された。
なお、子の元豊毛利氏に仕え、門司城代を務めたが、1562年大友氏の攻撃により討死した。その跡は元豊の弟の元満が継ぎ、水軍の将として活躍したが、文禄・慶長の役で討死した。山口県岩国市周東にある冷泉屋敷(冷泉氏館)跡が隆豊らの居館と考えられている〔周防・冷泉氏館 - 城郭放浪記〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「冷泉隆豊」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.