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凌 文淵(りょう ぶんえん)は清末、中華民国の政治家・書家・画家・経済学者。北京政府の要人。名は庠だが、字の文淵で知られる。号は、直支、植支。 == 事跡 == 公立両江師範学堂を卒業。1903年(光緒29年)に大阪で開かれた内国勧業博覧会を視察している。1909年(宣統元年)、江蘇省諮議局議員に当選し、張謇らの立憲運動に参加した。 1912年(民国元年)1月、南京臨時参議院議員に当選し、立憲党に参加した。翌年4月、衆議院議員に当選し、5月、進歩党に加入している。1917年(民国6年)8月から1927年(民国16年)まで、北京政府財政部の参事や首席参事をつとめ、主に外債委員会において任にあたった。その間の1922年(民国11年)8月に財政部常務次長代理・署理に昇進している。また11月には、逮捕された王寵恵臨時内閣財政総長・羅文幹の暫時代理として、12月には汪大燮臨時内閣・王正廷臨時内閣の暫時代理として、それぞれ財政総長をつとめた。 北京政府崩壊後は政界を離れ、東方絵画協会幹事、国立芸術専門学校教授などをつとめた。日中戦争(抗日戦争)時期には、日本軍の占領地域にとどまったが、親日政府からの任官要請はすべて拒絶している。梁は在野にあって教育・芸術の振興に励み、北平美術学校校長をつとめたほか、中国各地の学校で芸術教育にあたっている。〔現在の中国では、一般には凌文淵を漢奸とみなしていない。〕1944年(民国33年)5月、死去。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「凌文淵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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