|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 初 : [はつ] 1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new ・ 初代 : [しょだい] 【名詞】 1. first generation 2. founder ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ カー : [かー] 【名詞】 1. car 2. (n) car ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 侯 : [こう] 1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo ・ 侯爵 : [こうしゃく] 【名詞】 1. marquis 2. marquess
ケドルストンの初代カーゾン侯爵、ジョージ・ナサニエル・カーゾン、(, 、1859年1月11日 - 1925年3月20日)は、イギリスの政治家、貴族。 スカーズデール男爵家の跡取りとして生まれ、1886年に保守党の庶民院議員として政界入りした。1899年から1905年までインド総督を務め、強権的な内政とロシアの南下政策への対抗によって大英帝国のインド支配の強化に努めた。第一次世界大戦中には挙国一致内閣で閣僚職を歴任。とりわけロイド・ジョージ内閣では五人から成る戦時内閣の一人に選ばれた。戦後の1919年から1924年にかけては外務大臣を務め、カーゾン線の制定やローザンヌ会議の主催、独仏の緊張緩和など戦後処理に活躍。1923年には首相有力候補として取り沙汰されたが、国王ジョージ5世がボールドウィンに組閣の大命を与えたため、なり損ねている。 1899年にカーゾン男爵(アイルランド貴族)に叙され、ついで1911年にカーゾン伯爵・スカーズデール子爵・レイブンズデール男爵(連合王国貴族)に叙される。1916年にスカーズデール男爵(グレートブリテン貴族)を継承し、1921年にカーゾン侯爵(連合王国貴族)に叙された。 == 概要 == 1859年1月11日に第4代スカーズデール男爵アーサー・カーゾンの長男としてダービーシャー・に生まれた。イートン校を経てオックスフォード大学・ベリオール・カレッジへ進学(''→出自と生い立ち'')。 1886年に保守党の庶民院議員に初当選して政界入り。政界入り直後の1887年から1895年の間、五回にかけて世界旅行を行った。その間の1891年から1892年にかけてを務めた(''→政界入りと世界旅行'')。ついで1895年から1898年にかけてを務め、列強諸国による中国分割の中で清におけるイギリスの権益の守ることに奔走した(''→外務省政務次官 (1895年-1898年)'')。 1898年にインド総督兼副王に任じられ、アイルランド貴族爵位ケドルストンのカーゾン男爵に叙された。1899年1月から英領インドに着任。辺境地域の反乱鎮圧間もない時期だったため、北西部の独立志向の強い部族を警戒して北西辺境州(NWFP)を新設した。タージ・マハルなどの遺跡保護や大飢饉対策に尽力した。1903年にはエドワード7世のインド皇帝即位式を挙行した。ロシアの南下政策を警戒し、軍艦を率いてペルシア湾歴訪を行い、この際にクウェートを保護国と成し、またオマーンを脅迫してマスカット港のフランス貸与計画を中止させた。同じくロシアの南下政策への警戒から1903年から1904年にかけてチベット侵攻を実施した。1905年には軍の独立的地位を求めるインド駐留軍最高司令官初代キッチナー伯爵ホレイショ・キッチナーと対立を深めたが、本国政府から支持を得られなかったため、1905年11月をもってインド総督を辞することとなった(''→インド総督兼副王 (1899年-1905年)'')。 1908年からアイルランド貴族代表議員として貴族院議員となる。1911年には連合王国貴族爵位レイヴンズデール男爵、スカーズデール子爵、ケドルストンのカーゾン伯爵に叙された(''→議会に貴族院議員として復帰'')。 第一次世界大戦中の1915年5月に与党自由党と野党統一党(保守党)の大連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると王璽尚書として入閣。1916年5月にはに就任。同年12月成立のロイド・ジョージ内閣では・として入閣するとともに5人で構成される戦時内閣の一員となった(''→第一次世界大戦 (1914年-1918年)'')。 戦後の1919年にはロイド・ジョージ内閣の外務大臣に就任。それ以前の外相と比べると首相に従属的な外相だった。1919年12月にはソ連とポーランドの国境線を提案し、この線はカーゾン線と呼ばれた。1921年6月には連合王国貴族爵位ケドルストンのカーゾン侯爵に叙された。1922年から1923年にかけてはローザンヌ会議を主催し、トルコの国境線を確定した。フランス軍のルール占領をめぐっては独仏両国の仲介と緊張緩和に努めた。つづくボナー・ロー内閣でも外相に留任した(''→外務大臣 (1919年-1924年)'')。 1923年にボナー・ローが退任した際に後任の首相候補として取りざたされたが、国王ジョージ5世は庶民院議員ボールドウィンに組閣の大命を与えたため、首相にはなれなかった。貴族院議員だったことが忌避されたといわれる(''→首相になり損ねる (1923年)'')。 第一次ボールドウィン内閣には外務大臣、第二次ボールドウィン内閣には枢密院議長として入閣したが、1925年3月20日に死去した。男子がなかったため、甥リチャードに継承されたスカーズデール子爵位(特別継承規定により)とスカーズデール男爵位、および娘に継承されたレイヴンズデール男爵以外の爵位は廃絶した(''→晩年と死去'')。 愛国心の強い熱心な帝国主義者であり、大英帝国の偉大さを確信し、インド支配の強化に心を砕いた。豊富な政治経験にも関わらず、首相となれなかったことについて同情的な評価が多い(''→人物・評価'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Curzon, 1st Marquess Curzon of Kedleston 」があります。 スポンサード リンク
|