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別府星野組(べっぷほしのぐみ)とは、戦後の約三年間、大分県別府市に存在した日本の社会人硬式野球のチーム。 ==歴史== 戦後の1946年、1947年に都市対抗野球大会で大日本土木が二年連続優勝して、空襲で廃墟と化した本土の復興に土建会社がブームに乗った時代があった〔#白球、75-76頁〕。春、九州にも星野組と植良組という土建チームが現れた〔。星野組は戦時中、主として海軍の下請けをやっていて長崎県佐世保市に九州の本拠地を置いていた〔#白球、75-76頁〕。終戦後、米進駐軍キャンプの建設請負で別府に乗り込んできたところから本チームが始まる〔。同じ別府のライバルだった植良組は地元の土建会社で、やはり進駐軍工事を請け負っていた〔。植良組は初代監督に巨人の名遊撃手だった白石敏男(白石勝巳)を迎えた〔。無からスタートした植良組に対し星野組は軟式チームがあり、その下地はできていた〔。京都で開かれた第一回国体に南九州代表になるなど星野組は軟式ながら相当な力を持っていた。これを受け「一つウチも硬式をやってみようじゃないか」と言い出したのが、同社監査役・岡本忠夫(元日名子旅館社長)であった〔。「やるからには日本一のチームをつくろう」と秋、チームづくりのため、八幡製鐵を優勝させ、南海の監督経験もある加藤喜作を監督として招いた〔。さらに復員後、熊本県人吉市に帰郷していた川上哲治を支度金5万円で迎える交渉をしたが、川上が巨人入りしたため実現しなかった〔。春、八幡製鐵から永利勇吉らが加入しチームとして形が整い、岡本監査役が世話をしていた荒巻淳が入社し正式にチーム発足となった〔。 同年夏、都市対抗野球大会南九州予選にいきなり優勝し、第18回都市対抗野球大会に初出場。一回戦対新潟コンマーシャル戦では大勝したが、二回戦対大日本土木戦では完敗した。これに歯がゆい思いをした岡本監査役は加藤監督に「金はいくらかかってもよい。優秀な選手を集めてくれ」と補強命令を出し、西本幸雄、荒巻淳、今久留主淳、今久留主功兄弟、関口清治らをつぎつぎ誘い入れて強力な布陣を築きあげた〔。 翌、も都市対抗野球大会南九州予選を問題なく勝って第19回都市対抗野球大会出場。しかし準々決勝の対横浜金港クラブ戦で荒巻が三塁スライディングの際に肩を骨折。その後は代役が投げて決勝まで進出したが、練習試合などでは負けたことのなかった西日本鉄道に敗れ準優勝に終わった〔#白球、76-78頁〕。 この後、当時日本社会人野球協会副会長だった佐伯達夫から「星野組は社会人野球チームとは認められない」とクレームがつき、都市対抗の出場が危ぶまれた〔。プロ球団・大映スターズと練習試合をしたことが分かったからであった。また選手は仕事をせず野球だけをやっている、しかも試合では選手たちに本塁打を打てば1万円の賞金を与えているといった噂が佐伯の耳に入った。当時、大分市春日浦の土地を大分県に県営球場として寄贈したばかりの岡本監査役は、早速佐伯副会長を当地へ招き、球場造りに全選手が土をローラーがけしている姿を見せて納得してもらった〔。 加藤喜作監督が退任し、西本幸雄がプレイングマネージャーとなる〔。永利勇吉は阪急に入団したが、東口清美の加入で戦力は落ず、荒巻の成長で第20回都市対抗野球大会では快進撃を続け初優勝した〔。後楽園球場での応援合戦も荒巻の獲得に乗り出していた大映スターズの大映が女優陣を多数繰り出したのをはじめ、日名子ホテルの常連だった歌舞伎俳優・守田勘彌やピストン堀口らも駆けつけ華やかな応援となった〔。 秋、プロ野球の二リーグ分裂で三年間の短い命が散る〔。荒巻は西本、今久留兄弟らとともにパ・リーグの毎日オリオンズに入団。毎日が日本シリーズでチャンピオンとなる土台を築いた〔。 秋の星野組、植良組の相次ぐ解散で、大分県の社会人野球はの大分鉄道管理局の野球部復活まで暫く空白期間が続いた〔#白球、95頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「別府星野組」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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