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前の山和一 : ミニ英和和英辞書
前の山和一[いち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [いち]
  1. (num) one 

前の山和一 ( リダイレクト:前の山太郎 ) : ウィキペディア日本語版
前の山太郎[まえのやま たろう]

前の山 太郎(まえのやま たろう、1945年3月9日 - )は、高砂部屋所属の元大相撲力士。身長186cm、体重133kg。最高位は東張出大関。得意手は突っ張り、左四つ、寄り。
== 来歴 ==
大阪府北河内郡庭窪村(現在の守口市)出身。本名は清水和一(しみず かずいち)、旧姓は金島(かねしま)、元前頭朝若との養子縁組時は中矢(なかや)を名乗った。
浪商高校入学直後までは野球部に所属していたが、長身の体格を見込まれ相撲部に入部して大阪府の大会に出場するなど活躍した。そこで自信を持ち、高校を1年で中退し兄と共に高砂部屋に入門、1961年3月場所に初土俵を踏んだ。しかしその場所中の稽古で左腕を故障し、一度は序ノ口に付いたが7月場所には再び番付外から相撲を取った。取的時代は脱走の常習犯であり、都合7回も部屋を逃げては戻るを繰り返していた。そんな前の山を連れ戻すために時には部屋関係者が警察に捜索願を出したこともある。〔杉山邦博・小林照幸『土俵の真実 杉山邦博の伝えた大相撲半世紀』(文集文庫)〕一時は廃業も考えたがアメリカ合衆国ハワイ州から来日した高見山の入門で刺激を受け、師匠高砂(元横綱前田山)の励ましもあり奮起した。1965年のある日の夜にタニマチに宴席へ連れられた際には同席していた大鵬から「まだ幕下なのにこんな遅くまで遊んでいてはいけない。早く帰れ」と言われて小遣い20万円(現在の100万円に相当)を渡されたことがある。
再出世以降は着実に番付を上げて行き、1965年11月場所には十両に昇進、1966年11月場所には新入幕を果たした。師匠譲りの張り手を交えた徹底した突き押し相撲で、1968年3月場所に関脇に昇進する。1969年5月場所に東前頭筆頭で11勝4敗の成績を挙げて三役に復帰してからは三役に定着。1970年7月場所には13勝2敗の成績を挙げ横綱北の富士との優勝決定戦で敗れたものの場所後に大関に昇進した。
しかし、1970年9月場所前の稽古中に右足を故障し、新大関の場所は全休を余儀なくされた。翌11月場所はいきなり大関角番だったが、なんとか9勝6敗と勝ち越して角番脱出。だが、この右足の怪我の影響で本来の相撲が取れなくなり大関時代には一度も2ケタの勝ち星を挙げることができなかった。1972年1月場所で5日目から途中休場、2度目の角番となった翌3月場所の12日目、大関琴櫻との一番が「無気力相撲」で注意を受けた後、翌13日目から途中休場し〔実際は前の山の張り手により琴櫻が気絶したため一方的な相撲になっていた。〕、大関で2場所連続負け越しにより関脇へ陥落、大関在位は僅か10場所だった。そのうち2場所が9勝6敗、5場所も連続して8勝7敗だったこともあって、「クンロク大関」「ハチナナ大関」とも揶揄されていた。翌5月場所、関脇の地位で10勝の成績を挙げれば大関特例復帰となった〔1969年7月場所「大関で2場所連続負け越しで翌場所関脇に転落、但し降下直後の場所に10勝以上で大関特例復帰」と規定が改正して以降、前の山が初のケースだった。〕が、結局7勝8敗の負け越しに終わり再昇進は失敗に終わった。以降は幕内中位での相撲が続いたが、最終場所の1974年3月場所初日の吉の谷戦で足取り(それも波まくら型ではなく、いわゆるレスリングの「シングルレッグダイブ」型の変則の足取り)で敗れた例に表われるように、相撲内容が決して良いとは言えない状況に終始した。
1974年3月場所を最後に現役を引退し、年寄・高田川を襲名するとともに高砂部屋から独立して高田川部屋を新設した。小結前乃臻(後に前乃森と改名)、剣晃、幕内鬼雷砲らを育てるなど順風満帆ではあったが、1998年1月には周囲の反対を押し切り相撲協会の理事に立候補したため、当時所属していた高砂一門から破門され無所属となった。さらに同年3月には後継者に指名していた剣晃が、汎血球減少症による肺出血という奇病のため、現役中にわずか30歳で早逝という悲運に見舞われた。
1999年以降関取が不在で低迷していた時期も長かったが、2004年には貴乃花部屋から千田川親方(元関脇安芸乃島)が移籍。自ら弟子たちに胸を出す千田川の熱心な指導の甲斐もあり、2005年9月場所には大雷童が十両に昇進し、久しぶりに関取が復活した。弟子たちが相次いで師匠前の山の現役時代の名「太郎」を名乗り注目を集めている。
協会では、2期4年理事を務めたが、北の湖理事長就任が確実視されると理事立候補を止め、役員待遇に勇退する形で北の湖体制を支えた。境川理事長が推進した協会自主興行制の巡業には一貫して反発。勧進元制巡業に戻した北の湖理事長は、この経緯を買い、巡業の活性化を期待して高田川を2006年に異例の契約推進担当副部長に据えた。2007年の夏巡業で北海道での興行が復活するなど、手腕を発揮した。
2009年8月5日に千田川と年寄名跡を交換する形で部屋を譲った〔元安芸乃島が高田川部屋継承=大相撲 時事通信 2009年8月5日〕。2010年3月8日に日本相撲協会を停年退職した。
なお、実弟も高砂部屋の所属の元力士で、部屋所縁の佐田岬(後に前の湖と改名)を名乗り、幕下まで昇進した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「前の山太郎」の詳細全文を読む




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