|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 乃 : [の] 1. (prt) (1) (uk) indicates possessive 2. (2) verb and adjective nominalizer (nominaliser) 3. (3) indicates question (sentence end) ・ 夫 : [おっと] 【名詞】 1. (hum) (my) husband
前乃臻 康夫(まえのしん やすお、1961年4月17日- )は、福岡県嘉穂郡筑穂町(現役当時、現・同県飯塚市)出身で、高田川部屋に所属した大相撲力士である。本名は沢辺 康夫(さわべ やすお)。最高位は東小結(1987年9月場所)。得意手は左四つ、寄り、上手投げなど。現役時代の体格は185cm、137kg。 引退後、年寄・山響を借株で襲名するも1996年に失踪、間もなく日本相撲協会から解雇された。 == 来歴・人物 == 高田川親方(元大関・前の山)が育てた、初めての十両・幕内・三役力士である。力士から親方を経てタレントに転向した、元小結・龍虎を思わせるハンサム力士であった。父親は、彼と同時代に活躍した同じ筑豊地区出身の益荒雄の父親と同じく、西鉄バスの運転手だった。 中学時代に福岡県立嘉穂農業高校(後の福岡県立嘉穂中央高校)の相撲部よりスカウトされていたが、角界入りの思いが強く中学卒業後、高田川部屋に入門。1977年3月場所で初土俵を踏んだ。 初土俵の同期生には、のち幕内に昇進した押尾川部屋の恵那櫻や佐賀昇などがいる。 1985年11月、ご当所の九州場所で新入幕。それから暫くは幕内下位から十両で活躍したが、1987年5月場所以降は幕内に定着した。 翌7月場所では、東前頭8枚目の地位で11勝4敗と好成績を残し、敢闘賞候補に挙がった。だが、最終的にその敢闘賞は同成績の大ベテラン・出羽の花が受賞し、惜しくも生涯唯一の三賞受賞のチャンスを逸してしまった。翌場所では、自己最高位となる東小結に進出。同場所では4勝11敗と大敗したが、7日目に、対横綱・大関戦唯一の勝利を大関・大乃国から挙げている。なお、大乃国はこの場所を13勝2敗で終え、場所後には横綱へ昇進しているので価値のある勝利であった。 結局三役経験はこの1場所のみで終わり、以降は幕内の地位も長く保てず、再び十両へと陥落。 現役最晩年は幕下3枚目まで番付を落とし、1990年3月場所を最後に28歳の若さで引退した。 幕内経験は僅か10場所であったが、大雄や肥後ノ海らのように幕内を40~50場所以上務めても三役昇進を果たせなかった力士がいる中で、僅か10場所の幕内経験の中で1場所でも三役に昇進できたのは幸運であった。 引退後は山響親方として相撲協会の運営に携わっていたが、1996年11月場所後に失踪。翌年1月場所中も現れなかったため、同年1月31日、職務放棄として相撲協会から解雇処分を受けた(現役親方が解雇されたのは、初の事例)。失踪の原因としては、年寄・山響の名跡取得に関する金銭問題があったとされる。結局山響の取得はならず、名跡は高砂一門外の二子山親方(元大関・貴ノ花)が取得した。 その後は立ち直った模様で、2009年5月31日には停年を間近に控えた師匠・高田川親方(元・前の山)や高田川部屋の関係者らと共に「高田川御夫妻を囲む会」にも顔を出している。失踪事件以降は、帰郷したともされている(ベースボール・マガジン社『相撲』、2009年7月号より)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前乃臻康夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|