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前田 八十五郎(まえだ やそごろう、寛保元年6月20日(1741年8月1日) - 宝暦11年5月12日(1761年6月14日))は、加賀藩の第5代藩主前田吉徳の六男。母は側室の真如院。第6代から第10代の藩主5人の異母兄弟(宗辰、重煕、重靖の異母弟、重教、治脩の異母兄)に当たる。 == 生涯 == 寛保元年(1741年)、江戸にて誕生した。そのまま江戸藩邸で成長したが、寛延元年(1748年)5月21日に藩の重臣村井長堅の養嗣子となり、6月21日に母とともに江戸を出立し、11日に金沢に到着する。この間に加賀騒動が起こり、母真如院は主犯とされて禁錮され、翌年2月に縊死した。これにより、同年に八十五郎も村井家との養子縁組を解消され、金谷御殿に幽閉された。宝暦9年(1759年)4月、同母兄の利和の死後間もなく金沢に起こった大火により、金谷御殿から高畠木工定賢の宅に移される。幽閉は解かれないまま、宝暦11年(1761年)に同所にて没した。享年21。院号は華厳院。利和と同様、天徳院に葬られた。 同母兄の利和と同様に、長い間前田家の供養の列から除かれていたが、戦後に兄弟ともに吉徳の実子とされ復権し、野田山の前田家墓所に改葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田八十五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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