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前田 利保(まえだ としやす)は、越中富山藩の第10代藩主。 == 生涯 == 寛政12年(1800年)2月28日、第8代藩主・前田利謙の次男として江戸で生まれる。享和元年(1801年)に父が死去したときには2歳だったために家督を継げなかった。文化8年(1811年)閏2月5日、第9代藩主・利幹の養子となる。天保6年(1835年)10月19日、利幹が病気のために隠居したため、家督を継いで第10代藩主となった。 これまでの富山藩は財政難に喘いできたが、天保7年(1836年)、大凶作により、元々困窮していた藩はさらに困窮する。天保9年(1838年)1月、藩札などを取り仕切っていた御勝手方・御改革方の家老の近藤丹後ら一党が失脚させられた。同年3月に幕府から3万両の供出を、さらに翌10年(1839年)8月には2万5千両の供出を命ぜられたが、藩はこれを捻出するために町々に臨時の税として御用金を科し、また藩士全体に対し翌年までの半知借上げを命じる。これにより領民や藩士は益々困窮し、これを知った幕府はさすがに天保12年(1841年)10月に予定されていた利保の参勤交代を免除した。 利保は当時、福岡藩主黒田斉清とともに博物大名として知られた。相次ぐ凶作などで藩財政が困窮していたため、産物方を設置して陶器製造業、薬草栽培などの産業を奨励して財務再建を図った。特に薬草栽培には力を入れた。岩崎灌園や宇田川榕庵を師として自ら本草学を学び、本草学に傾倒する余り「草癖」を揶揄された。「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など、薬草に関連した多くの著作を残している。領内の下ノ茗温泉を拠点として、自身が実地で採取調査した、と記録されている。また、嘉永6年(1853年)3月、領内最高峰の金剛堂山を登山〔現在の富山県の最高峰である立山(雄山)には登っていないが、これは当時立山周辺が加賀藩領だったためと推測される。〕。家臣を伴っていたが、自らが先頭に立って登山したと伝わる。また、先の著作の挿絵作業を通して富山藩の「売薬版画」いわゆる「富山絵」が発展したとされている。 これ以外には藩内の流通を統制し、文武を奨励、相次いでいた外国船襲来に備えて海防を強化するなどした。 弘化3年(1846年)10月20日、病気を理由に六男の利友に家督を譲って隠居、嘉永2年(1849年)、富山城外の、城の東北に隣接した地域に広大な千歳御殿を造営した〔平成19年(2007年)、旧千歳御殿の門が、明治時代に移築された豪農家から市に寄贈され、城址公園内(本丸東側)に移築された。千歳御門も参照のこと。〕。御殿は神通川沿いにご涼所や茶室また薬草園が設けられ、ここで隠居生活を送りながら、しかし藩政の実権は握り続けた。この頃も藩は凶作などが相次ぎ、藩財政再建のため、藩士の知行借上や上米を行ない、若年の利友治世時の嘉永元年(1848年)には金札を発行している。その後、藩内に意見対立する派閥が形成され、安政4年(1857年)にかけて、後述する御家騒動が起こることとなる。嘉永6年(1853年)12月20日に利友が早世したため、利保の七男で利友の同母弟の利聲が跡を継いだがこれを藩政から遠ざけ、安政4年(1857年)3月頃から利保が再度藩政を主導した。 安政2年(1855年)2月に城下で大火発生。安政5年2月26日(1858年4月9日)、飛越地震発生。領内が被災した。 安政6年(1859年)8月18日に死去した。享年60。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田利保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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