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前田川克郎 : ミニ英和和英辞書
前田川克郎[まえだがわ かつろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

前田川克郎 : ウィキペディア日本語版
前田川克郎[まえだがわ かつろう]

前田川 克郎(まえだがわ かつろう、1939年2月9日-1998年11月4日)は、岩手県江刺市稲瀬(現役当時、現・同県奥州市)出身で、高砂部屋に所属した大相撲力士。大相撲の黄金時代の一つである、「柏鵬時代」に活躍した力士の1人である。本名は高橋 勝郎(たかはし かつろう)。最高位は西関脇1961年7月場所・1962年7月場所)。現役当時の体格は170cm、117kg。得意手は左四つ、寄り、突き、押し。
== 来歴・人物 ==
実家は農家。地元の草相撲で活躍していたが、中学2年生の時上京して高砂部屋に入門し、1952年9月場所にて13歳で初土俵を踏んだ。1954年春までは、中学に通いながら相撲を取っている。
入門時の年齢がとても若く、また小柄であったので、前相撲で6連敗するなど最初は出世も遅かった。しかし、20歳の頃からは体もでき、以後は持ち前の激しい突き押しを武器に徐々に昇進していった。
1960年1月場所後、21歳で新十両に昇進。十両は負け越しなしで4場所で突破し、同年11月場所で新入幕を果たした。
突貫小僧の異名を持ち、入幕後すぐに幕内上位に進出した。
1961年3月場所では、同部屋の先輩である横綱朝潮と最後まで優勝を争い、12勝3敗と大きく勝ち越して初の三賞(敢闘賞)を受賞。7月場所では最高位となる西関脇に進み、その場所優勝した大関大鵬を破るなど奮闘したが、7勝8敗と惜しくも負け越した。小結に後退した翌9月場所では、初日に大関・柏戸、4日目に再度大鵬を破ったがそれ以外はすべて負けて2勝13敗に終わるという珍しい星を残している。
その後もしばしば上位陣を苦しめ、1964年5月場所では、4日目に横綱・大鵬の連勝を34で止める殊勲の星も挙げている。しかしその場所も3勝12敗と大負けしたように、幕内上位での成績にはムラがあり、その後はだんだんと上位での活躍もなくなっていった。
1965年11月場所を最後に十両に下がり、1967年3月場所では東十両15枚目の地位で9勝6敗と勝ち越した。しかし、場所後関取の人員を16人削減する「番付削減」が敢行された煽りをもろに食らって翌5月場所、不運にも西幕下筆頭に下げられてしまった。
5月場所では皆勤したものの2勝5敗と負け越し、同場所限り、「(番付の)上がり下がりが早いよ」と言い残して28歳の若さで引退
年寄名跡を得られなかったため、引退後、日本相撲協会に残る事はなかった。
その後は、東京都杉並区内のスーパーマーケットに勤務した後郷里に戻り、岩手県経済連の水沢配送センターに勤めたという。
1998年11月4日肺癌のため岩手県水沢市内の病院で逝去。享年59。
験をかついで下の名をたびたび改名し、「克郎」は「勝つだろう」と読めるから駄目だと「勝雄」にしてみたり、それでも足りないと「克」(かつ)一文字にするなどした。
なお「前田川」の四股名は、同部屋の大先輩・大田山も十両昇進前に名乗っていた事がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「前田川克郎」の詳細全文を読む




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