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前田川 克郎(まえだがわ かつろう、1939年2月9日-1998年11月4日)は、岩手県江刺市稲瀬(現役当時、現・同県奥州市)出身で、高砂部屋に所属した大相撲力士。大相撲の黄金時代の一つである、「柏鵬時代」に活躍した力士の1人である。本名は高橋 勝郎(たかはし かつろう)。最高位は西関脇(1961年7月場所・1962年7月場所)。現役当時の体格は170cm、117kg。得意手は左四つ、寄り、突き、押し。 == 来歴・人物 == 実家は農家。地元の草相撲で活躍していたが、中学2年生の時上京して高砂部屋に入門し、1952年9月場所にて13歳で初土俵を踏んだ。1954年春までは、中学に通いながら相撲を取っている。 入門時の年齢がとても若く、また小柄であったので、前相撲で6連敗するなど最初は出世も遅かった。しかし、20歳の頃からは体もでき、以後は持ち前の激しい突き押しを武器に徐々に昇進していった。 1960年1月場所後、21歳で新十両に昇進。十両は負け越しなしで4場所で突破し、同年11月場所で新入幕を果たした。 突貫小僧の異名を持ち、入幕後すぐに幕内上位に進出した。 1961年3月場所では、同部屋の先輩である横綱・朝潮と最後まで優勝を争い、12勝3敗と大きく勝ち越して初の三賞(敢闘賞)を受賞。7月場所では最高位となる西関脇に進み、その場所優勝した大関・大鵬を破るなど奮闘したが、7勝8敗と惜しくも負け越した。小結に後退した翌9月場所では、初日に大関・柏戸、4日目に再度大鵬を破ったがそれ以外はすべて負けて2勝13敗に終わるという珍しい星を残している。 その後もしばしば上位陣を苦しめ、1964年5月場所では、4日目に横綱・大鵬の連勝を34で止める殊勲の星も挙げている。しかしその場所も3勝12敗と大負けしたように、幕内上位での成績にはムラがあり、その後はだんだんと上位での活躍もなくなっていった。 1965年11月場所を最後に十両に下がり、1967年3月場所では東十両15枚目の地位で9勝6敗と勝ち越した。しかし、場所後関取の人員を16人削減する「番付削減」が敢行された煽りをもろに食らって翌5月場所、不運にも西幕下筆頭に下げられてしまった。 5月場所では皆勤したものの2勝5敗と負け越し、同場所限り、「(番付の)上がり下がりが早いよ」と言い残して28歳の若さで引退。 年寄名跡を得られなかったため、引退後、日本相撲協会に残る事はなかった。 その後は、東京都杉並区内のスーパーマーケットに勤務した後郷里に戻り、岩手県経済連の水沢配送センターに勤めたという。 1998年11月4日、肺癌のため岩手県水沢市内の病院で逝去。享年59。 験をかついで下の名をたびたび改名し、「克郎」は「勝つだろう」と読めるから駄目だと「勝雄」にしてみたり、それでも足りないと「克」(かつ)一文字にするなどした。 なお「前田川」の四股名は、同部屋の大先輩・大田山も十両昇進前に名乗っていた事がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田川克郎」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maedagawa Katsu 」があります。 スポンサード リンク
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