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前田達 : ミニ英和和英辞書
前田達[たち, たっし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [たち, たっし]
  1. (n-suf) plural suffix 

前田達 ( リダイレクト:桂枝雀 (2代目) ) : ウィキペディア日本語版
桂枝雀 (2代目)[かつら しじゃく]

2代目桂 枝雀(かつら しじゃく、本名:前田 達(まえだ とおる)、1939年昭和14年)8月13日 - 1999年平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、超人的努力と空前絶後の天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。出囃子は『昼まま』。実の弟はマジシャンの松旭斎たけし
師匠米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となったが、1999年3月に自殺を図り、意識が回復することなく4月19日に心不全のため死去した。。他、同世代の噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称されている。
== 来歴・人物 ==
1939年、神戸市灘区にブリキ工を営む父の長男として前田達は生まれた。1945年6月、5歳の時に戦災に遭い、父親の出身地である鳥取県倉吉市に疎開〔古川嘉一郎『少年の日を越えて-「漫才教室」の卒業生たち-』大阪書籍、1986年、21頁〕〔鳥取県/広報湯梨浜/本の広場 〕。小学校1年入学間もなく兵庫県伊丹市に移り住んだ〔。中学卒業後、元来進学を希望していたが、父が亡くなるなどで家族の生計が苦しく、やむを得ず夜間の伊丹市立伊丹高等学校の定時制に進学。日中は三菱電機伊丹製作所で養成工として働いたり、兵庫県立伊丹高等学校で給仕の仕事をしたりと家族を支えた。
この頃弟(後述)とラジオ番組「漫才教室」にリスナーとして参加している。「伊丹の前田兄弟」は素人お笑いトーナメント荒らしとして知られ、賞金を得ては生計の足しにしていた(同番組の審査員の中には、後の師匠となる桂米朝も含まれていた)。そんな多忙な中でも勉強は怠らず、高校へは首席合格。そのため入学式では入学生代表の挨拶を務めた。特に高校生の頃から英語の学力はかなりのものであり、専門書を読めるほどで、後の英語落語にも繋がる。
1960年(昭和35年)に神戸大学文学部に入学するが、1年間通った後1961年(昭和36年)「大学がどんなとこか大体分かりました」とあっさりやめた。3代目桂米朝に入門し落語の道を志す。「10代目桂小米」と命名された。兄弟子に3代目桂米紫月亭可朝がいるが、内弟子としては米朝の一番弟子である。1962年(昭和37年)4月に千日劇場で初舞台。
小米時代は内容の設定を深く掘り下げ、大阪では珍しい繊細で鋭角的なインテリ的な落語だったという。声が小さい場面もあり、米朝から「後ろの人は聞こえんぞ」とたしなめられることもあった。客層はいつも笑う人といつも笑わない人に分かれたらしい。
間もなく、女性浪曲漫才トリオ『ジョウサンズ』でアコーディオンを弾いていた日吉川良子と出会い、「あんたみたいな天涯孤独な人探してたんや」と結婚を申し込む(その後、ホール落語時に一門の下座三味線を買って出る)。夫人によれば、落語やこれまで喋っていたときの大らかで陽気な性格とは違い、家ではひどく陰気で、世間話もしない、テレビも見なかったので驚いたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桂枝雀 (2代目)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shijaku Katsura II 」があります。




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