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前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。 == 来歴 == 寛保元年(1741年)金沢で生まれ、そのまま金沢で成長した。〔以下、『加賀藩史料』、および、『寛政重修諸家譜』。〕当初、加賀藩年寄村井長堅の養子になる予定であったが、宝暦3年(1753年)5月に藩主となった異母兄・重靖の命により、村井との養子の約束を解消して前田家に留まる。同年10月5日、加賀藩は藩主であった重靖の病死を公表した。このとき、後継者であった重教はただちに江戸へ向かい、幕府から家督相続の許可を得る手はずだったが、麻疹にかかって出発できず、藩首脳部で大きな問題となる。同月15日、諱を利篤とする。同月17日、松平の名字を与えられる。〔村川浩平『日本近世武家政権論』、173~174頁。〕宝暦4年(1754年)2月、健康を回復して金沢を出発し、江戸に向かう。同年3月11日、将軍徳川家重に御目見し、末期養子として家督を相続する。同年4月、正四位下、左近近衛少将に叙任、加賀守を称する。また将軍家重から偏諱を授かって重基に改名する。翌宝暦5年(1755年)12月、左近衛権中将に昇進する。また明和2年(1765年)、将軍世子家基の諱を憚って重教に改名した。 藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き、宝暦4年(1754年)まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続いた。また相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は一層苦しくなっていた。宝暦9年(1759年)4月10日、金沢に大火が起こり、金沢城をはじめ1万5百戸余りが焼失し、幕府から金5万両を借りて急場をしのいだ。また、重教は加賀狂言などの能狂言の普及に努めた。明和8年(1771年)に家督を異母弟の治脩に譲って隠居したが、その後にもうけた息子の斉敬、次いで斉広が治脩の養子となった。天明6年(1786年)に46歳で死去した。 金沢市にある全性寺(日蓮宗の寺)には、重教の生母が安産祈願のために寄進した不動明王が祭られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田重教」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maeda Shigemichi 」があります。 スポンサード リンク
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