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黎朝(レちょう、れいちょう、980年 - 1009年)は、ベトナム北部を支配した王朝。首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)。15世紀に黎利が建国した黎朝と区別して、前黎朝と呼ばれている〔ファン『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、159,164頁〕。 == 歴史 == 王朝の創始者である黎桓(レ・ホアン)は、丁朝の建国者である丁部領(ディン・ボ・リン)に仕えていた。黎桓は丁部領(ディン・ボ・リン)の下で十道将軍に任じられ、軍事を司っていた〔桜井、桃木「レー・ホアン」『東南アジアを知る事典』、490頁〕。 979年の丁部領の死後、黎桓は摂政として国政を執る中で楊(ズォン)皇后との仲が親密になり、敵対する勢力を討伐した〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、69頁〕。同年に呉権の子孫である呉日慶(ゴー・ニャッ・カイン)がチャンパ王国と同盟し、王位を要求して北ベトナムに侵入したが、黎桓は呉日慶を撃破した〔桃木「レー・ホアン(黎桓)」『ベトナムの事典』、352頁〕。丁部領の死を知った中国の宋はベトナムへの出兵を決定し〔、宋の攻撃を前にしてベトナムの将兵は黎桓を新たな君主に推した〔酒井「黎桓」『アジア歴史事典』9巻、342頁〕〔ファン『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、158頁〕。楊皇后は子の丁璿を守るために黎桓と再婚し、新たに黎桓が王位に就いた〔。 981年に白藤(バクダン)江の戦いで黎桓の軍は海路から侵入した宋軍に勝利し、諒山(ランソン)でも陸路から侵入した宋軍を破った。 982年にはチャンパ王国に親征を行ってチャンパの首都インドラプラを攻略し、チャンパ王インドラヴァルマン4世は南方に逃れた。983年に宋への朝貢を再開し、この時にチャンパ遠征の戦利品と思われる乳香や犀角を納めた〔桜井「紅河の世界」『東南アジア史1 大陸部』、50頁〕。黎桓の軍がチャンパから撤退した後、黎桓の配下である劉継宗(ルー・ケ・トン)がチャンパに残って占城王を称した。南ベトナムにはインドラヴァルマン4世と劉継宗の政権が並立し、インドラヴァルマンは宋に助けを求めた〔桜井「南シナ海の世界」『東南アジア史1 大陸部』、68-70頁〕。宋は黎桓にチャンパへの侵入を禁じたが、黎桓は宋の禁令に従わず、989年と992年の2度にわたってチャンパに侵入した〔。 993年、黎桓は宋より交趾郡王に封じられた〔。 1005年の黎桓の死後、各地に分配した王子たちの内訌によって国力は低下する〔。黎桓の第3子の黎龍鉞が即位するが、わずか3日で廃位される〔 酒井「黎桓」『アジア歴史事典』9巻、342頁〕。代わって黎龍鉞を殺害した黎桓の第5子の黎龍鋌(レ・ロン・ディン/ズィン)が即位する。黎龍鋌は残忍な性格で知られ、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、71頁〕。黎龍鋌が没した後、1009年末に僧侶と廷臣の支持を受けた禁軍の指揮官・李公蘊が王位に就いた〔ファン『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、165頁〕。後代に中国で編纂された歴史書には、李公蘊が即位の際に幼帝を殺害したと記されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前黎朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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