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劇辛(げきしん、? - 紀元前242年)は、中国の戦国時代末期、趙出身の燕の将軍。法家思想家の処子と同一人物とする説がある〔司馬遷『史記列伝』第一巻、小川環樹、今鷹真、福島吉彦訳。岩波文庫、1975年。p. 242。ただし、同書は劇辛と劇子が同一人物であるかまでは言及していない。〕。 == 略歴 == 出身は趙であるが、燕の昭王が斉に対抗するために、臣下の郭隗の献策を元に有能な人材を諸国に求めたとき、それに応じて魏の将軍・楽毅や斉の陰陽家・鄒衍と共に燕に移った〔『史記』「燕召公世家 」昭王元年 「樂毅自魏往,鄒衍自齊往,劇辛自趙往,士爭趨燕。」 〕。以後、昭王から喜まで5代の燕王に仕えた。 喜十二年(紀元前242年)、趙将の李牧により武遂と方城が奪われる。しかし、喜は、趙がたびたび秦に敗北し、さらに既に名将・廉頗が出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て、劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した。劇辛は趙にいたころ、龐煖と親しくしていたため、「龐煖は与(くみ)易きのみ(龐煖はまさしく与するのに容易い人物だ)」と答え、趙に攻め入った。しかし、燕軍のうち二万が敗死するという大敗に終わり、劇辛もまた戦死した。〔『史記』「燕召公世家 」今王喜十二年 「十二年,趙使李牧攻燕,拔武遂、方城。劇辛故居趙,與龐煖善,已而亡走燕。燕見趙數困于秦,而廉頗去,令龐煖將也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易與耳。」燕使劇辛將擊趙,趙使龐煖擊之,取燕軍二萬,殺劇辛。」〕 『史記』「孟子荀卿列伝」によれば、趙には名家の公孫竜の堅白同異説と並ぶ学説として、『劇子之言』(『劇先生の言説』)というものがあったとされる〔『史記』「孟子荀卿列伝 」 而趙亦有公孫龍為堅白同異之辯,劇子之言; 〕。これを『漢書』「芸文志」に記載される法家思想の書物『処子』(旧字体では『處子』)九篇と同一の書籍とする説がある〔。いずれの書籍も散逸しており、正確なところは不明〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劇辛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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