|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 劉 : [りゅう] 【名詞】 1. axe 2. kill
劉 琨(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。「劉昆」とも呼ばれる。曾祖父と祖父は魏に仕えた劉邁と劉進、父は西晋に仕えた劉蕃でその庶子、兄は劉輿(字は慶孫)。子に劉群(劉羣)、劉遵ら。西晋の安定期には吏僚として、永嘉の乱の戦乱期には武将として異民族鎮圧に活躍した。 中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)に生まれ、漢王室に連なる宗族出身で〔『晋書』劉琨伝によると、前漢の中山靖王・劉勝の側室が産んだ王子の末裔だと記されている。〕、若い頃は文化人としての一面もあり、賈謐の二十四友にも名を連ねた。また吏僚として親友の祖逖と共に司州主簿を務め、恵帝の末年には広武侯に封ぜられている。 306年、并州刺史になると晋陽から幽州、冀州、并州にかけて転戦するが、漢(後の前趙)の劉淵・劉聡父子には何度か破れた。312年に晋陽では劉聡の子劉易・劉粲兄弟と劉聡の族兄弟劉曜らによって、両親が殺害されている。 313年以降の劉琨は鮮卑拓跋部の拓跋猗盧らと結んで、前趙との戦いを継続した。 後に平北将軍、司空、并・幽・冀三州諸軍事などに任ぜられ、西晋の将軍として劉淵や前趙の部将石勒らに激しい抵抗を続け、最後は鮮卑段部の段匹磾らと結んだ。しかし318年5月8日、劉琨の存在を快く思わない東晋の大将軍王敦らに唆された段匹磾らの裏切りで殺害されてしまった。東晋の元帝は劉琨の死を惜しみ、愍侯と謚した。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉コン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|