翻訳と辞書
Words near each other
・ 劉エン (威碩)
・ 劉カイ
・ 劉カイ (南朝宋)
・ 劉キ
・ 劉キン
・ 劉キン (学者)
・ 劉キン (驍騎将軍)
・ 劉ク
・ 劉ゲン
・ 劉コン
劉シャク
・ 劉シュン膏
・ 劉シン
・ 劉セイラ
・ 劉セン
・ 劉ソウ
・ 劉タン
・ 劉チョウ
・ 劉テイ
・ 劉テイ (建安七子)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

劉シャク : ミニ英和和英辞書
劉シャク[りゅうしゃく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りゅう]
 【名詞】 1. axe 2. kill 

劉シャク : ウィキペディア日本語版
劉シャク[りゅうしゃく]

劉焯(りゅうしゃく 544年 - 608年)は、中国儒学者天文学者は士元。信都昌亭(現在の河北省冀州市)の人。
若くして河間の劉炫と結盟して友となり、ともに劉軌思(劉献之の三伝弟子)から『毛詩』を学び、三礼熊安生に学んだ。後、儒学をもって名を知られ、州博士となり、文帝の時、秀才で挙げられ、国史編纂に従事した。後に劉炫とともに磨滅した洛陽石経の考定に従事している。博識で議論に負けたことが無く、恨まれて除名された。
郷里に帰ってからは教授と著作に専念し、劉炫の聡明博学と並べられて世に「二劉」と称された。天下の名儒後進が質疑や授業を受けようと、千里をも遠からずとして至り、数百年来の博学通儒でその右に出るものはいないと賞賛されたが、吝嗇で授業料を納めないものには一切教えないなど度量は小さかったと言われる。
その後、煬帝の時に再び朝廷に召され、自ら著した皇極暦の採用を求めたが、太史令張冑玄に反駁されて用いられなかった。大業6年(608年)、67歳で死去した。
彼は暦の計算に等間隔二次差補間法の公式を作って日月運行の不等を求めたり、平朔法に代わって定朔法を採用したりし、官暦に採用されることはなかったものの、唐代暦法に大きな影響を与えた。また経学では。の(ひかん)の『尚書義疏』を取りあげたりして南学を積極的に取り入れている。彼の『五経述義』は五経正義の底本となった。その著述はほとんど現存しておらず、『尚書義疏』の断片が『玉函山房輯佚書』に収められているだけである。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「劉シャク」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.