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劉休若(りゅう きゅうじゃく、448年 - 471年)は、南朝宋の皇族。巴陵哀王。文帝劉義隆の十九男。 == 経歴 == 劉義隆と羅美人のあいだの子として生まれた。456年(孝建3年)1月、巴陵王に封じられた。458年(大明2年)、冠軍将軍・南琅邪臨淮二郡太守となった。南彭城下邳二郡太守に転じた。460年(大明4年)3月、都督徐州諸軍事・徐州刺史として出向した。461年(大明5年)、建康に召還されて散騎常侍・左右郎将・呉興郡太守となった。また召還されて散騎常侍・太常となった。465年(永光元年)、左衛将軍の号を受けた。 同年(泰始元年)12月、散騎常侍・中書令に転じ、衛尉を兼ねた。466年(泰始2年)1月、鎮東将軍の号を受けた。使持節・都督会稽東陽永嘉臨海新安五郡諸軍事として出向し、安東将軍・会稽郡太守を兼ねて、明帝即位に反対する東方の諸勢力を討った。2月、散騎常侍の位を加えられ、衛将軍の号を受けた。9月、梁雍南北秦四州荊州之竟陵隨二郡諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。 会稽にいたときに賄賂を受け、母の喪中に声楽と飲酒を楽しんでいたことを咎められ、467年(泰始3年)1月に鎮西将軍に降格された。まもなく衛将軍にもどされた。7月、薛安都の子の薛伯令が雍州4郡に拠ると、休若はこれを討って斬った。468年(泰始4年)1月、典簽の夏宝期を投獄して殺したことが明帝の怒りを買い、左将軍に降格され、使持節・都督を監と改められ、雍州刺史は正式の任から代行に格下げされ、封500戸を削減された。5月、使持節・都督湘州諸軍事・行湘州刺史として出向した。469年(泰始5年)6月、征南将軍・湘州刺史となった。閏月、都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・荊州刺史に転じた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。 471年(泰始7年)2月、征西大将軍・開府儀同三司の位を受けた。晋平王劉休祐が殺害されると、休若が代わって都督南徐南兗徐兗青冀六州諸軍事・征北大将軍・南徐州刺史に任じられた。劉休祐の旧部下や中兵参軍の王敬先らが休若に湖北・湖南地方での自立を勧め、休若はこれにうなずいた。6月、都督江郢司広交五州豫州之西陽新蔡晋熙湘州之始興四郡諸軍事・車騎大将軍・江州刺史に転じた。建康に召還され、7月7日に邸において死を賜った。享年は24。侍中・司空の位を追贈された。 子に劉冲始があり、廬江王劉禕の後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉休若」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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