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劉 封(りゅう ほう、? - 220年)は、中国後漢末期の武将。字は不明。父は寇氏。母は不明。劉備の養子。副軍将軍。荊州長沙郡羅県の人。 ==生涯== 『三国志』蜀志劉封伝によると、元々は長沙郡の1県である羅侯の寇氏の子で、長沙の劉氏の甥であった。劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎの無かった劉備から養子に迎えられた。 212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、諸葛亮・張飛・趙雲らに従って共にこの戦いに参加。行く先々で武功を挙げて、益州平定後、副軍中郎将に任じられた。 建安24年(219年)、劉備は孟達に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸太守の申耽を攻撃した。劉封は孟達1人では心許ないと思った劉備に命じられ、その援軍として漢中を発して上庸に進軍。申耽を降伏させた。この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。 同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、孫権が派遣した呂蒙の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・夏侯尚と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。 劉備は関羽の援軍を拒んだ事と、上庸を失った事などを激しく咎めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。 子の劉林は誅殺されず牙門将に任命され、蜀漢滅亡後の264年、河東郡に移住した。 『三国志』の撰者陳寿の評では、「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と大変手厳しいものとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉封」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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