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劉 建緒(りゅう けんしょ、)は、中華民国の軍人・政治家。湖南陸軍(湘軍)出身で、後に国民革命軍に加入した。何鍵の側近的存在であった。字は恢先。 == 事跡 == === 湘軍での台頭 === 長沙長郡中学に入学していたが、辛亥革命勃発後は湖南陸軍(湘軍)第1師に加入した。その後、陸軍第二予備学校に入学・卒業し、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科に進学している。このとき、何鍵と同期であった。1916年(民国5年)に卒業して湖南に戻った。 1917年(民国6年)に孫文(孫中山)により護法運動が開始され、北京政府の段祺瑞が鎮圧のために大軍を南方へ派遣してくる。劉建緒は何鍵と共に護法運動を支持する湘軍総司令程潜の配下となり、北軍を迎撃した。1919年(民国8年)、何と共に唐生智配下に転じ、趙恒惕の派閥に属することになった。1923年(民国12年)の譚趙之戦において、劉は譚延闓派の蔡巨猷軍撃破に貢献、これにより第27団団長に昇進している。 1926年(民国15年)夏、唐生智が国民革命軍に易幟し、第8軍軍長に任命されると、何鍵は同軍第1師師長、劉建緒は第1師第4旅旅長に昇進した。劉率いる旅は武漢攻略で軍功をあげ、翌年4月には何率いる第35軍で第2師師長兼副軍長に昇進している。まもなく、唐が反蒋介石戦争(寧漢戦争)に敗北・下野したため、何と劉は新広西派(新桂系)と和解、湖南に駐屯した。その後、劉は湖南清郷第3区指揮官代理、第19師副師長、湘贛両省剿匪総指揮部第5路総司令を歴任している。 新広西派が蒋介石と対立する傾向を強めると、何鍵と劉建緒は蒋介石に拠る姿勢に転じる。同年2月に何鍵は湖南省政府主席に任ぜられ、劉建緒は第19師師長に昇進した。蒋桂戦争では劉は討逆軍第4路軍第2縦隊司令に任ぜられ、新広西派の軍勢と交戦している。1930年(民国19年)秋に第28軍軍長に昇進し、第1次中国共産党(紅軍)掃討(1930年12月)、第2次掃討(1931年4~5月)に参加する。1933年(民国22年)7月には、贛粤湘鄂剿匪西路軍第1縦隊司令として第5次掃討に参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉建緒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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