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劉敞(りゅうしょう、Liu Chang 天禧3年(1019年) - 熙寧元年4月8日(1068年5月11日))は北宋の仁宗朝後半と英宗朝に活躍した経学者・歴史学者・政治家(官僚)・文人(文章家)で、当時において無類の博学を誇った。字は原父。私に号して公是先生とも呼ばれた。北宋中期の代表的な士大夫。主として経学者として知られ、宋代経学の新機軸を切り開いた代表的学者の一人。弟の劉攽、息子の劉奉世とともに三劉(新喩三劉)と呼ばれた。 == 生涯 == 江西省(江南西路)臨江軍新喩県を本貫(出身地)とする劉氏一族の中、最も著名な人物。 祖父を劉式、父を劉立之に持ち、弟に劉攽、息子に劉奉世がいる。祖父劉式は太宗朝に磨勘公として知られた官僚で、劉氏一族の出世の気運を作った。息子の劉立之も5人の兄弟と共に科挙に登台し、劉氏一族の繁栄の基礎固めをした。劉敞は劉立之の三男(兄2人は早世)として生まれ、無類の博学によって当時著名な学者となった。 科挙登台以前に、祖父や父の関係から、既に欧陽脩・梅堯臣といった著名な学者の知遇を得ていた劉敞は、慶暦6年(1046年)に科挙に登台する。(本来首席であったが、姻戚関係のある王堯臣が科挙の試験監督に関与していたことから、嫌疑を避けて二番となった)以後、スピード出世を遂げ、8年後(至和元年/1054年)には知制誥にまで至る。翌年に契丹(遼のこと)に使いしたが、この時のエピソードはよく知られている。 従来、遼に向かう宋の官僚に対して、遼の臣僚はその版図の大きさを示す為にわざと遠回りをすることがあった。そして劉敞のときにも同じようにわざわざ遠回りをしてみせたのであった。ところが博識を誇る劉敞は遼の地理を熟知しており、遼の官僚に向かって、何故に遠回りをするのかを逆に聞き返した。これには遼の官僚も驚くばかりであった。また遼の人々さえも知らぬ不思議な動物についても、劉敞は躊躇うことなく説明し、遼人を大いに驚かせたと云われている。 遼より帰還後、王堯臣の参知政事就任にともない都の開封より地方に出るが、数ヶ月で召還された。この折り、嘉祐4年(1059年)の科挙にも関与している。 以後劉敞は七年にわたり知制誥をつとめ、翰林学士候補として期待されながらも、宰相との衝突や自身の病気などのために永興(長安周辺の地名)の長官として地方に留まらざるを得なくなった。仁宗の最末年の嘉祐八年(1063年)、遂に召還され、欧陽脩と宰相韓琦との計らいで翰林学士への昇格が期待されたが、仁宗の崩御によって延期となる。続く英宗からは期待されたようだが、劉敞の病気が重くなり、再び地方へ出ざるを得なくなった。治平3年(1066年)に一旦召還されるも、翌年の神宗即位の年、つまり煕寧元年(1068年)4月8日に官舎にて卒した。享年50。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉敞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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