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劉昶(りゅう ちょう、436年 - 497年)は、南朝宋の皇族。義陽王、ついで晋熙王。文帝劉義隆の九男。北魏に亡命して丹陽王、ついで宋王に封じられた。字は休道。 == 経歴 == 劉義隆と謝容華のあいだの子として生まれた。445年(元嘉22年)2月、義陽王に封じられた。450年(元嘉27年)、輔国将軍・南彭城下邳二郡太守となった。453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、劉昶は散騎常侍の位を加えられた。孝武帝が即位すると、劉昶は太常に転じ、東中郎将・会稽郡太守として出向した。まもなく監会稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事を加えられた。454年(孝建元年)7月、東揚州が立てられると、劉昶は東揚州刺史に任じられ、後将軍の号を受けた。 457年(大明元年)、召還されて秘書監となり、驍騎将軍の号を受け、散騎常侍の位を加えられた。458年(大明2年)2月、中軍将軍・南彭城下邳二郡太守に転じた。10月、都督江州郢州之西陽豫州之新蔡晋熙三郡諸軍事・前将軍・江州刺史として出向した。459年(大明3年)7月、召還されて護軍将軍の号を受けた。中書令に転じた。461年(大明5年)6月、中軍将軍の号を受けた。463年(大明7年)10月、開府儀同三司の位を加えられた。散騎常侍の位を受け、太常となった。孝武帝の南巡に従い、皇太后の龍舟を転覆させる失態を犯したため、開府の位を剥奪された。まもなく再び授与された。464年(大明8年)7月、使持節・都督徐兗南兗青冀幽六州豫州之梁郡諸軍事・征北将軍・徐州刺史として出向した。 465年(宋の永光元年、北魏の和平6年)9月、妾の呉氏や一党数十人を連れて北魏に亡命した。武邑公主を妻に迎え、侍中・征南将軍・駙馬都尉となり、丹陽王に封じられた。1年あまりして武邑公主が死去すると、建興長公主を妻に迎えた。467年(宋の泰始3年)、宋では晋熙王に改封された。470年(泰始6年)、宋で劉燮が後を嗣いだ。 北魏の皇興年間、宋の明帝が員外郎の李豊を北魏に派遣すると、献文帝は劉昶と明帝のあいだで手紙のやりとりを許した。劉昶は外都坐大官に任じられた。建興長公主が死去し、さらに平陽長公主を妻に迎えた。 北魏の太和初年、内都坐大官に転じた。479年(太和3年)、斉の蕭道成が帝位につき、宋の順帝を殺害すると、劉昶は孝文帝による南征に参加した。雨が降りつづき行軍を妨げられたため、撤退の意見を上奏して容れられた。儀同三司の位を加えられ、儀曹尚書を兼ねた。孝文帝の命により蒋少遊とともに朝儀の改革を担当した。 中書監となり、斉郡開国公に封じられ、宋王の号を加えられた。493年(太和17年)春、孝文帝が北魏の百官を経武殿に集めて、南征について議論させると、斉の蕭氏による簒奪に話が及んで、劉昶は悲泣してやまなかった。斉の雍州刺史の曹虎が偽って北魏に降伏を申し出ると、劉昶は義陽に出兵したが、得るところなく帰還した。 494年(太和18年)7月、使持節・都督呉越楚彭城諸軍事・大将軍に任じられた。孝文帝の南征に従軍し、斉の司州に進攻して、斉軍をたびたび撃破した。再び義陽に進出したが、勝利できず撤退した。497年(太和21年)4月、彭城で死去した。享年は62。仮黄鉞・太傅・揚州刺史の位を追贈された。諡は明といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉昶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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