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劉曜 : ミニ英和和英辞書
劉曜[りゅう よう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りゅう]
 【名詞】 1. axe 2. kill 

劉曜 : ウィキペディア日本語版
劉曜[りゅう よう]

劉 曜(りゅう よう)は、五胡十六国時代前趙(漢)の第5代皇帝。
晋書』劉曜伝によると、身長は9尺3寸、5尺の髭、白い眉、赤い瞳を持っていたと伝わる。劉亮の玄孫、劉広の曾孫、劉防の孫、劉緑の子、劉暉の兄弟。同時に劉淵の族子で劉聡の族弟。幼い頃に父・劉綠が亡くなり、族父の劉淵に引き取られ、劉聡とともに養われた。剛胆かつ文武に秀で、劉淵からは「劉家の千里の駒」と呼ばれた。
== 生涯 ==
20歳で洛陽に遊学した。事件に連座し誅殺されそうになり、朝鮮に逃亡したが、恩赦にあって帰還した。その後、管涔山に隠遁した。元熙元年(304年)10月に劉淵が漢王を称すると、建武将軍となって并州刺史司馬騰と戦った。永鳳元年(308年)10月に劉淵が帝号を称すると龍驤大将軍となった。永鳳2年(309年)9月、11月に劉聡と共に洛陽を攻撃したが勝利できなかった。
昭武帝が即位すると、しばしば戦功を立て、嘉平元年(311年)6月に洛陽を陥落させ、懐帝を捕虜とした。大略奪を行い、晋の王公以下3万余人を殺害した。このとき捕らえた晋の恵羊皇后(羊献容)を妻として3人の子をもうけた。8月、劉粲の後継で長安を陥落させた。車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧となり、始平王から中山王に改封され、長安の鎮守となった。嘉平2年(312年)4月には長安を奪い返され、8万人を無理やり平陽に連れ去った。以降数年に亘り晋軍と攻防を繰り広げた。
建元2年(316年)11月、長安を攻めて晋の愍帝を捕らえ、秦王に封ぜられて再び長安の鎮守となった。建元4年(318年)、昭武帝が崩御する直前に丞相として輔政されようとしたが固辞した、8月、隠帝劉粲のもとで相国・都督中外諸軍事に上った。靳準の乱で隠帝が殺されると、武将の石勒とともに長安から平陽に向かい、10月に途中の赤壁で皇帝に即位し、光初と改元した。平陽で靳準が殺され、12月、靳準の従弟の靳明伝国璽を送って降伏すると、靳氏を全て誅殺した。長安に遷都し、羊献容を皇后とし、その子劉煕を皇太子とした。
光初2年(319年)、冒頓単于を天に配し、国号をと改めた。4月、晋の秦州刺史・陳安が帰順した。11月、石勒が趙王を名乗って独立した。光初3年(320年)1月、晋王を名乗る司馬保を逃走させた。5月、陳安が離反した。関中で句渠知に30余万人が呼応し大反乱となったが、遊子遠が車騎将軍となって平定し、陳安が再び帰順した。太学と小学をたてた。光初5年(322年)には仇池に親征し、楊難敵が称藩したが、陳安が涼王を名乗り再び叛いた。羊献容が死去し献文皇后と諡号した。父劉綠と献文皇后に大墳墓を造ろうとして、遊子遠に諫言された。
光初6年(323年)、親征して7月には陳安の乱を平定し、さらに28万5千の大軍で進軍して前涼を藩国とした。劉胤を永安王に封じ、侍中・衛大将軍・都督二宮禁衛諸軍事・開府儀同三司・領太子太傅とし、皇子と号した。劉胤の母の卜氏に元悼皇后を追諡した。光初7年(324年)、後趙の石他が上郡を襲うと、従弟の劉岳を派遣して石他を斬らせた。これから両国は戦争状態となった。楊難敵が離反した。10月、無主の洛陽に後趙が進駐した。光初8年(325年)、劉岳に洛陽を攻撃させたが、4月までに撃退された。劉曜自身が救援に向かったが、前軍が大敗し、兵士が夜中に恐慌を起こして長安に帰還した。6月、劉岳は敗北して捕虜となった。劉胤を大司馬とし南陽王に進封し、単于台を置いて大単于とした。
光初10年(327年)、前涼が離反し、晋の涼州牧を名乗り秦州を攻掠したが、10月に劉胤を派遣し撃退した。光初11年(328年)7月、後趙が前趙領に侵攻すると、翌月に劉曜自らが迎え撃ち大勝した。その勢いで攻め上り、洛陽を占領した。12月、石勒率いる後趙軍と戦い、敗北して捕虜となった。光初12年(329年)1月、石勒は劉岳を派遣して宴を催した。後趙への降伏を促されたが拒否したために石勒に殺害された。
性格は大らかで爽やか、読書好きで文章も上手く、筆を下ろせばたちまちのうちに名文美文を書きあげた。書道が得意でとくに草書隷書が上手かった。その上武芸にも秀で、厚さ1寸の鉄板をも貫通する強弓を使いこなし「神射」と呼ばれた。『晋書』ではその能力を認めつつも「自分から味方を敵にまわしたから滅亡したのだ」と、手厳しく批評されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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