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章帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。 == 生涯 == 60年(永平3年)に3歳で皇太子に立てられ、75年(永平18年)に父の明帝が崩御すると、19歳で即位した。同時に義理の母である馬皇后(光武帝の有力部将馬援の娘)が皇太后に立てられて後見した。馬皇太后は身を慎み、実家の馬氏一族が高位に取り立てられることを拒んだので、章帝の時代には、後漢王朝の宿弊となった外戚の専権が表に現れることはなかった。生母の賈貴人は、明帝の正妻である馬皇后と従姉妹同士で仲が良かったといわれる。 父の明帝が法治政治を行ったのに対し、章帝は幼少の頃から儒学を好み、儒学の徳目に適った寛容な徳治政治を敷いた。そのため、経済や文化は大きく発展した。 78年(建初3年)、竇氏を皇后に立てる。 79年(建初4年)、自ら詔を下して宮中の白虎観に儒者を集め、五経のテキストの異同を議論させた。自身も会議に臨席するほど熱を入れて取り組み、史臣班固に命じてこの会議をもとに古今の学説をまとめた『白虎通義』を編集させた。 西域との交通は、新の滅亡後から後漢の初め頃まで一時途絶えていたが、明帝のときに再び本格的な進出が始まった。章帝の時代も匈奴とそれに組みする西域諸国との戦いが続き、章和元年(87年)には、班超らの活躍により、長らく漢に叛いていた莎車を服属させることに成功した。 馬皇太后の死後(79年(建初4年))、皇后の竇氏は子がなかったため、皇太子劉慶の生母宋貴人と別の皇子劉肇を生んだ梁貴人を憎んでおり、讒言して2人とも死に追いやった。劉肇は皇后の養子となった。 82年(建初7年)、皇太子慶を廃して清河王とし、皇子劉肇を皇太子に立てる。 88年(章和2年)、32歳で崩御した。その後、10歳の劉肇が和帝として即位し、和帝の擁立を取り仕切った竇氏は皇太后として幼い皇帝に代わって政治を執り、その実家の竇固を初めとした竇氏一族が権勢を振るうようになった。こうして後漢は、皇帝の母の一族(外戚)によって政治を左右される時代に入り、支配体制に揺らぎが生じるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「章帝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Zhang of Han 」があります。 スポンサード リンク
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