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劉 玉書(りゅう ぎょくしょ)は中華民国の政治家。国民政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で官職に就いている。 == 事跡 == 日本に留学し〔JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015592100、在本邦留学生便宜供与(入退学、見学、実習等)関係雑件/警察関係 第五巻(B-H-05-06-00-01-04-00-05)(外務省外交史料館)、4頁。〕、陸軍士官学校を卒業〔。1934年(民国23年)、天津市公安局長に就任し〔、翌年には工務局長も兼ねた。〔劉寿林ほか編(1995)、1001頁。〕〔劉国銘主編(2005)、465頁。〕冀察政務委員会で外交委員会委員を務めた〔JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111462000、冀察案内 昭和12年3月1日(防衛省防衛研究所)、12頁。〕後、1938年(民国27年)8月、日本の国策会社北支那開発及び中支那振興両社の子会社として発足した華北電信電話の取締役理事に就任〔〔逓信報告社『逓信総合職員録』昭和18年、549頁。〕。 汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、劉玉書もこれに参加する。劉は1943年(民国32年)2月に北京特別市市長に任命され〔、〔劉寿林ほか編(1995)、1139頁。〕更に華北政務委員会華北河渠委員会委員も兼任した。〔1944年(民国33年)4月、華北政務委員会農務総署糧食管理局局長も兼任している。〔1945年(民国34年)2月に辞任し、〔翌月に華北政務委員会委員に任ぜられている。〔劉寿林ほか編(1995)、1059頁。〕〔日本敗北後の同年12月5日、劉玉書は北平で漢奸として逮捕され、翌1946年(民国35年)10月31日、懲役15年を言い渡された。〔余ほか編(2006)。〕以後、劉玉書の行方は不詳である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉玉書」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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