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劉 尚(りゅう しょう、? - 47年?)は、中国の後漢時代初期の武将。范曄の『後漢書』において伝は立てられていないものの、後漢草創期の功臣の1人と言っても良い歴戦の将軍で、漢の宗室に連なる人物である。なお、『東観漢記』、『続漢書』は、「劉禹」との名をとっている。また、和帝の代に活動した征西将軍劉尚とは別人である。 == 事跡 == 建武9年(33年)8月、武威将軍劉尚は中郎将来歙の指揮下に入り、隗囂の子隗純が拠る天水郡へ進攻し、隗純を来援していた蜀(成家)の公孫述の将田弇・趙匡を撃破した。同年冬、かつて隗囂に従属していた先零羌などの北方民族が、金城郡・隴西郡に攻め込んできたが、劉尚は来歙指揮下でこれも撃破した。 建武11年(35年)、大司馬呉漢指揮下で公孫述の討伐に向かい、最初は守中郎将馬成の下で河池県を破って、武都郡を平定した。 建武12年(36年)9月、劉尚は呉漢の副将として公孫述配下の大司徒謝豊、執金吾袁吉の軍と広都県(蜀郡)で対峙する。緒戦は、劉尚は命により呉漢と分かれて布陣したが、謝豊らの軍に分断され苦戦する。しかし、呉漢は密かに劉尚の軍に合流して、謝豊・袁吉を攻撃し、これらを斬った。さらに、劉尚は公孫述を牽制する役割を担い、呉漢らと連動して、8戦8勝し、ついに成都城外に陣を張ることができた。同年11月、呉漢、劉尚らは成都を陥落させ、ついに公孫述を滅ぼした。しかし、その際に呉漢が成都で略奪・放火を働いたことで、呉漢が光武帝から譴責を受け、さらに劉尚も「宗室の子孫でありながら、なぜこれを見過ごしたのか」と糾弾された。 建武18年(42年)、蜀郡の守将史歆が成都で叛逆し、大司馬を自称した。劉尚は呉漢の指揮下に入って史歆を討伐し、これを誅殺した。 建武19年(43年)、前年から蜂起していた南方民族・西南夷の渠帥棟蠺が益州郡を攻撃してくると、劉尚はこれを討伐し、撃退した。さらに越雟太守任貴(長貴)が謀反すると、同年12月に劉尚はこれを攻撃し、誅殺した〔『後漢書』西南夷伝によると、任貴は劉尚を酒宴で歓待した隙にこれを殺そうと謀ったが、劉尚に見破られて先制攻撃を受け、殺されたとする。〕。建武21年(45年)春正月、劉尚は派遣されて棟蠺を討伐し、ついにこれを斬って地域を平定した。 建武23年(47年)春正月、南郡蛮(南方民族の一部族)が謀反すると、劉尚が派遣されてこれを撃破し、これらの者を江夏郡に遷した。同年12月〔『後漢書』光武帝紀第一下による。なお、同馬援伝によると、建武24年(48年)の事としている。〕、武陵五渓蛮(南方民族の一部族)が叛逆し、郡県を襲撃すると、劉尚が派遣されたが、敵を軽んじ、兵糧も十分でないまま深入りしてしまう。劉尚は、沅水で敗北して軍は覆滅され、自身も戦死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉尚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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