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劉 義季(りゅう ぎき、415年 - 447年)は、南朝宋の皇族。衡陽文王。武帝劉裕の七男。小字は師護。 == 経歴 == 劉裕と呂美人のあいだの子として生まれた。劉義隆が荊州刺史となると、義季は劉裕の命を受けて劉義隆に従って江陵に下向し、このことから劉義隆に気に入られるようになった。424年(元嘉元年)、衡陽王に封じられた。428年(元嘉5年)、征虜将軍の号を受けた。431年(元嘉8年)、石頭戍事を領知した。432年(元嘉9年)6月、使持節・都督南徐州諸軍事・右将軍・南徐州刺史に任じられた。439年(元嘉16年)2月、臨川王劉義慶に代わって都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・安西将軍・荊州刺史となった。巴蜀の争乱にともなう軍事負担のため、任地の財政は悪化していたが、義季は自ら節倹につとめ、費用を節約して畜財したため、数年間で倉廩は充実した。義季は書が苦手で、部下に書かせたものを、自分は署名するだけであった。443年(元嘉20年)3月、散騎常侍の位を加えられ、征西大将軍の号を受け、南蛮校尉を兼ねた。 義季は酒を好み、彭城王劉義康が廃位された後は連日長夜の飲をなして、素面でいることが少なくなった。文帝(劉義隆)はたびたび譴責を加えたが、飲酒癖を改めることはなかった。 444年(元嘉21年)8月、都督南兗徐青冀幽六州諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・南兗州刺史に任じられた。445年(元嘉22年)7月、徐州刺史に転じた。446年(元嘉23年)、北魏の侵入を受けたが、義季は劉義康の前例を見ていたため、功績を立てようと望まず、無策のまま飲酒にふけるばかりであった。 447年(元嘉24年)、義季の病が重くなったため、文帝は徐湛之を派遣して建康に召還させようとした。しかし義季は、出発する前に彭城で死去した。享年は33。侍中・司空の位を追贈された。 子の劉嶷(字は子岐、衡陽恭王)が後を嗣ぎ、中書侍郎・太子中庶子となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉義季」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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