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劉 義真(りゅう ぎしん、407年 - 424年)は、南朝宋の皇族。廬陵孝献王。武帝劉裕の次男。 == 経歴 == 劉裕と孫修華のあいだの子として生まれた。413年(義熙9年)9月、桂陽県公に封じられた。417年(義熙13年)、劉裕が長安を占領したとき、義真は栢谷塢の留守をつとめた。行都督雍涼秦三州之河東平陽河北三郡諸軍事・安西将軍・領護西戎校尉・雍州刺史に任じられた。418年(義熙14年)、劉裕が南に帰還すると、義真は王修の補佐を受けて関中の統治にあたった。督并東秦二州司州之東安定新平二郡諸軍事の任を加えられ、東秦州刺史を兼ねた。 赫連勃勃の侵攻を受けたが、沈田子が王鎮悪や王修を殺害するなど関中は混乱のきわみにあった。劉裕は義真に代わる雍州刺史として朱齢石を派遣した。義真は関中から撤退する途中、青泥で赫連勃勃に追いつかれて大敗を喫した。まもなく都督司雍秦并涼五州諸軍・建威将軍・司州刺史に任じられた。段宏が諮議参軍として義真を補佐した。 420年(永初元年)6月、劉裕が皇帝として即位すると、義真は廬陵王に封じられ、東城に移った。421年(永初2年)1月、司徒に上った。422年(永初3年)3月、使持節・侍中・都督南豫豫雍司秦并六州諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史に任じられた。歴陽に駐屯するよう命じられたが、劉裕の死去まで赴任しなかった。 義真は文章を好んで、謝霊運や顔延之らと交友したが、そのことが徐羨之の忌避を買った。424年(景平2年)2月、徐羨之の弾劾を受けて、庶人に落とされ、新安郡に移された。前吉陽県令の張約之が義真を弁護する論陣を張ったが、約之は梁州府参軍に左遷されて殺害された。6月、義真は配所で殺害された。享年は18。426年(元嘉3年)1月、徐羨之・傅亮らが殺害されると、義真の名誉は追って回復され、侍中・大将軍の位を追贈された。 義真に子はなく、文帝の五男の劉紹が後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉義真」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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