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劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第3代皇帝。長兄の劉和を殺して帝位を継いだ。八王の乱と塞外民族の大移動で混乱に陥った西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、華北に覇を唱えた。 ==生涯== ===即位するまで=== 匈奴の指導者で五胡十六国時代の端を開いた光文帝劉淵の四男(三男とも)。生母は側室の光献皇后張氏。父劉淵は非常に教養の高い人物だったが、劉聡も経典や史書などの書物に詳しく、書に巧みで詩賦に優れており、武芸にも精通していたという。20歳の時に洛陽に留学し、張華・楽廣などの名門の子弟と盛んに交流したという。 やがて父の下に戻り、西晋に帰順していた頃、新興太守主簿を初めとして各要職を歴任した。河間王司馬顒に赤沙中朗将とされたが、成都王司馬穎に父が殺されるのを恐れ、鄴に駆けつけて右積弩将軍・参前鋒戦事として仕えた。父が西晋から北単于に任じられると右賢王に立てられ、大単于を称すると鹿蠡王となった。永鳳元年(308年)に父が皇帝に即位すると楚王に封ぜられ、車騎大将軍になった。 河瑞元年(309年)、父の命令で王弥と共に洛陽を攻撃したが、東海王司馬越に阻まれた。同年に大司徒になり、翌河瑞2年(310年)の父の崩御の直前に大司馬・大単于となった。 父が没すると異母長兄の劉和が帝位を継いだ。劉和は指導者としての才覚はあったが猜疑心が強く、母方の叔父の呼延攸と共に異母弟の劉聡、同母弟の劉裕、劉隆、末弟の劉乂の武力を恐れこれを除こうとした。劉乂らと内通した劉聡は先手を打ち、劉和を兄弟の劉裕と劉隆、叔父の呼延攸ら共々まとめて殺害し、自ら帝位に就いて功績のあった劉乂を皇太弟にした。しばらくして、劉聡は同母兄の劉恭を飛び越えて即位したことを忌み嫌って、刺客に命じて劉恭を殺害したと伝わる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉聡」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Liu Cong (Han Zhao) 」があります。 スポンサード リンク
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