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劉 航琛(りゅう こうちん)は中華民国の政治家・財務官僚。当初は四川軍(川軍)で財務官僚を務め、後に国民政府でも要職に就いた。名は宝遠だが、字の航琛で知られる。。 == 事跡 == 瀘州学堂を経て1916年(民国5年)、国立北京大学理工科に入学した。1919年(民国8年)、法科経済系に転じ、1923年(民国12年)に卒業している。同年秋に帰郷し、瀘県県立中学校長となった。 1926年(民国15年)9月、重慶衛戌司令王陵基の招聘に応じ、部隊の顧問に任ぜられる。同年12月、国民革命軍第3師政治部主任となった。翌年、重慶銅元局事務所所長となり、後に第21軍財政処処長にまで昇進している。1928年(民国17年)、第24軍・第21軍両軍財務統籌処副処長となり、翌1929年(民国18年)5月、四川善後督弁公署財政処処長に起用された。1930年(民国19年)、第21軍総金庫収支官となる。 1934年(民国23年)12月、四川省政府財政庁庁長となり、翌年2月、四川省銀行総経理を兼任した。その後、四川省内の各種企業・銀行を統轄し、日中戦争(抗日戦争)期において四川省の電力・セメントなど各種実業振興に取り組んでいる。1941年(民国30年)、国民政府糧食部川東南督糧特派員に任ぜられ、翌年4月、糧食部政務次長に昇進した。 戦後の1946年(民国35年)5月、劉航琛は糧食部政務次長を辞任し、翌年5月、全国経済員会委員に転じた。1948年(民国37年)1月、立法院立法委員に当選する。1949年(民国38年)6月、経済部部長に昇進した。国共内戦で中国国民党が敗退すると、劉も香港経由で台湾に逃れ、1950年(民国39年)1月、経済部長を辞任している。 1975年(民国64年)9月28日、台北市にて病没。享年80。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉航チン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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