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劉 良(りゅう りょう、? - 41年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は次伯。劉回の子、劉欽の弟で、後漢の光武帝(劉秀)の叔父。甥には他に劉縯、劉仲が、姪に劉黄、劉元、劉伯姫がいる。子は劉栩。 == 事跡 == 平帝の時代に孝廉に挙げられ、蕭県(沛郡)の令となっている。劉秀の兄弟姉妹は年少にして孤児となったため、劉良は彼らを手厚く保護した。特に末弟だった劉秀は劉良の自宅で養育された。 しかし、地皇3年(22年)に、劉秀が反新の挙兵について劉良に報告すると、劉良は「お前は伯升(劉縯)とは志向が異なると思っていたのに、この一族の滅亡の危機に、お前まで謀反を企んでいたとは何たることだ」と激怒して罵った。それでも已む無くこれに追従したが、この年の末に小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで劉秀らが敗北すると、劉良自身は逃れたものの、妻と2人の子は新軍に殺されてしまった。 翌更始1年(24年)2月に劉玄が更始帝として即位すると、劉良は国三老となった。以後、更始帝に随従し、長安入りしている。ところが、建武1年(25年)6月に劉秀が光武帝として即位すると、更始政権の御史大夫隗囂が、劉良に政事を委ねるよう更始帝に説いたが、更始帝はこれを拒否した。また、劉良自身も長安から逃亡して洛陽入りし、劉秀の下に逃げ込んだ。 建武2年(26年)、劉良は広陽王に封じられ、建武5年(29年)には趙王に転封された。建武11年(35年)頃、劉良は威勢を恃んだ振舞いをしたため、司隷校尉鮑永から「大不敬」として弾劾されている。建武13年(37年)、趙公に降格している。建武17年(41年)、劉良は死去した。子の節王劉栩が後継している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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