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劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) ? - 建安13年(208年)8月)は、中国後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。兗州山陽郡高平県〔現在の山東省・河南省の境目〕の人。前漢の景帝の第4子である魯恭王劉余の子孫〔范曄『後漢書』劉表伝より。陳寿『三国志』劉表伝には一切記されていない。〕。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。 == 生涯 == 当初は何進に仕えた。 霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった〔『三国志』及び裴松之の注釈には、劉表に詔勅を下ったのがいつのことであり、詔勅を下したのは誰であるのかは明記されていない。 ;関連する記述 :『三国志』魏書武帝紀などによると、霊帝の死去は189年4月の事であり、後漢朝廷の実権を掌握していた何進も、同年8月に宦官らによって殺害されている。 :『後漢書』劉表伝によると、劉表に荊州刺史就任の詔勅が下ったのは、190年、荊州刺史王叡が孫堅によって殺害された後の事になっている。 :『三国志』呉書孫破慮討逆伝によると、王叡は孫堅によって殺害されるまで荊州刺史の任にある。同伝・注『王氏譜』によってもそれは同じである事が確認出来る。 :『三国志』魏書董卓伝によると、190年当時、朝廷の実権を握っていたのは董卓となっている。 :『三国志』蜀書劉焉伝・注『続漢書』によると、劉表が荊州牧になった時期を劉焉が益州牧となった188年だとする。裴松之はこの記述に対して、劉表が荊州の長官となったのは、霊帝死後、王叡が孫堅によって殺された後だとする推測を述べている。 〕。 しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治める事に成功した。〔『三国志』魏書劉表伝・注司馬彪著『戦略』の記述〕(後に州治を宜城近くの襄陽〔現在の湖北省襄陽市北部にあたる。〕に移している。) 初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。 初平3年(192年〔初平2年(191年)の説もある〕)、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵入した。劉表は黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。黄祖は苦戦したが孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた。(襄陽の戦い) 初平4年(193年)、らが実権を掌握する朝廷から、劉表は仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。同年、袁術と曹操が争うと、袁術の糧道を断ち、袁紹と協調関係にあった曹操を支援した〔『『三国志』武帝紀の記述。〕。 張済が食料不足により荊州の穣城を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。劉表は「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。これは私の本意ではない」と言い、旧張済軍を受け入れた。旧張済軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。 その後、曹操と袁紹は敵対するようになる。劉表は引き続き袁紹に与して、旧張済軍の張繍と同盟を結び、曹操と戦った。 建安3年(198年)、曹操が張繍の駐屯する穣県〔河南省南陽周辺。〕を攻囲した。劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かすと、張繍とともに挟撃しこれを破った。しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。 建安4年(199年)11月、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。 建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表は袁紹から救援を要請された。これに先立って、長沙太守の張羨が桓階の提案に従い、長江・湘江一帯の住民を扇動して劉表に背いていた。劉表は張羨を討つべく自ら出征しており、結局袁紹に援軍を送らなかった。その後、張羨は病死し子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた〔陳寿は劉表のこのような姿勢を、『三国志』魏書劉表伝の本文中において「劉表は袁紹には“援軍を送る”と約束しながら派兵せず、かといって太祖(曹操)に組するでもなく、長江・漢水流域を抑えつつ、天下の動向を観察していた」と記している。〕。 建安6年(201年)、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。劉表は劉備を新野〔現在の河南省南陽市新野県〕に駐屯させ、曹操への備えとした。 建安8年(203年)、曹操が荊州へ侵攻し西平に駐屯した。すると、まもなく河北では袁譚と袁尚が争うようになった。曹操は袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。この戦いの前後に、劉表は劉備を博望に派遣し、夏侯惇・于禁らの率いる軍を退けている。 建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。 建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻を開始。劉表は曹操が荊州入りする直前に病死した。享年67(65の説あり)〔この説を採ると、劉表の生年は144年という計算になる。〕。死後、庶子の劉琮が家督を継いだが、長子の劉琦も劉備によって江夏の主として盛り立てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉表」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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