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劉道産(劉道產、りゅう どうさん、生年不詳 - 442年)は、東晋から南朝宋にかけての軍人・政治家。本貫は彭城郡呂県。 == 経歴 == 太尉諮議参軍の劉簡之の子として生まれた。はじめ輔国参軍をつとめた。無錫県令に任じられ、有能で知られた。義熙年間、劉裕の下で中軍行参軍となり、さらに劉道憐の下で驃騎参軍となって、父の爵位の晋安県五等侯を嗣いだ。417年(義熙13年)、南海郡の徐道期が広州刺史の謝欣を殺害して広州を占拠すると、道産は劉道憐の命を受けて広州に向かった。しかし道産が到着する前に、始興相の劉謙之がすでに広州を平定していた。 道産は寧遠将軍・巴西梓潼二郡太守に任じられた。黄公生・任粛之・張石之ら譙縦の残党たちが、侯攬・羅奧らとともに白水氐を招き入れて、反乱を起こそうと計画していた。道産は黄公生ら21家族を処刑して、残りの仲間たちは赦した。建康に召還されて、彭城王劉義康の下で驃騎中兵参軍となった。426年(元嘉3年)11月、督梁南秦二州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。429年(元嘉6年)、道産は隴西郡と宋康郡を置くよう上表してこの2郡を領知した。430年(元嘉7年)、建康に召還されて後軍将軍の号を受けた。431年(元嘉8年)、竟陵王劉義宣の下で左将軍諮議参軍となった。閏月、持節・督雍梁南秦三州荊州之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事・寧遠将軍・寧蛮校尉・雍州刺史・襄陽郡太守に任じられた。道産の統治は善政で知られ、諸民族も帰順する者が相次ぎ、民衆も生業を楽しんで、「襄陽楽歌」が作られたとされる。 436年(元嘉13年)、輔国将軍の号を受けた。442年(元嘉19年)、死去した。征虜将軍の位を追贈された。諡は襄侯といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉道産」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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