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劉遵考(りゅう じゅんこう、392年 - 473年)は、南朝宋の皇族。営浦侯。劉裕の族弟にあたる。 == 経歴 == 彭城郡内史の劉涓子の子として生まれた。はじめ振武参軍となり、盧循の乱の討伐に参加し、郷侯に封じられた。417年(義熙13年)建威将軍・彭城郡内史として劉裕の北伐に従軍した。ときに劉裕の諸子はみな弱年で、宗室のうちでは遵考だけが成人であった。418年(義熙14年)1月、遵考は督并州司州之北河東北平陽北雍州之新平安定五郡諸軍事・輔国将軍・并州刺史となり、河東郡太守を兼ね、蒲阪に駐屯した。夏の赫連勃勃の進攻により、関中が奪われると、遵考は江南に帰り、遊撃将軍の号を受けた。冠軍将軍に転じた。420年(元熙2年)、晋の恭帝が帝位を譲って秣陵宮にうつると、遵考は兵を率いて護衛にあたった。 同年(永初元年)、遵考は営浦県侯に封じられ、彭城沛二郡太守となった。423年(景平元年)、右衛将軍の号を受けた。425年(元嘉2年)、征虜将軍・淮南郡太守として出向した。426年(元嘉3年)、使持節・領護軍となり、殿省に入って宿直した。11月、使持節・督雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事・征虜将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出向し、襄陽新野二郡太守を兼ねた。その統治は苛酷で粗暴であり、民衆は収奪に苦しんだ。428年(元嘉5年)、御史の弾劾を受けたが、文帝は罪に問わず、遵考は赦されて建康に帰った。430年(元嘉7年)、太子右衛率に任じられ、給事中の位を加えられた。431年(元嘉8年)2月、督南徐兗州之江北淮南諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史となり、広陵郡太守を兼ねた。建康に召還されて侍中となり、後軍将軍の号を受け、太常に転じた。432年(元嘉9年)、右衛将軍の号を受け、散騎常侍の位を加えられた。435年(元嘉12年)、病のため散騎常侍の官を免じられた。436年(元嘉13年)、本官にもどった。438年(元嘉15年)、徐州大中正・太子中庶子を兼ねた。5月、監徐兗二州豫州之梁郡諸軍事・前将軍・徐兗二州刺史に任じられたが、赴任しないうちに侍中となり、左衛将軍を兼ねた。439年(元嘉16年)閏月、使持節・監豫司雍并四州南豫州之梁郡弋陽馬頭荊州之義陽四郡諸軍事・前将軍・豫州刺史に任じられ、南梁郡太守を兼ねた。444年(元嘉21年)、旱魃のため飢饉となり、民衆に備蓄の穀物を配給するよう命じられたが、遵考は文帝の命令に従わなかったため、免官された。散騎常侍・五兵尚書として再起し、呉興郡太守に転じた。448年(元嘉25年)9月、召還されて領軍将軍の号を受けた。450年(元嘉27年)、北魏の太武帝が瓜歩まで南進してくると、遵考は軍を率い長江に出て魏軍と対陣した。453年(元嘉30年)1月、使持節・平西将軍・豫州刺史に任じられた。2月、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、遵考は安西将軍の号を受け、徐安期・仰捷祖らと戦った。3月、孝武帝が起兵すると、遵考は南譙王劉義宣につき、鎮西将軍の号を加えられた。夏侯献が軍を率いて瓜歩に到達すると、遵考は孝武帝に面会して、劉劭に従った罪を問われて免官された。 454年(孝建元年)、魯爽・臧質の乱が起こると、遵考は征虜将軍として再起し、兵を率いて臨沂県に駐屯して、そのまま呉興郡太守に任じられた。455年(孝建2年)、召還されて湘州刺史となった。赴任しないうちに、尚書右僕射に転じた。456年(孝建3年)閏月、丹陽尹となり、散騎常侍の位を加えられた。9月、再び尚書右僕射となり、太子右衛率を兼ねた。459年(大明3年)1月、領軍将軍の号を受け、散騎常侍の位を加えられた。461年(大明5年)12月、また尚書右僕射・金紫光禄大夫となった。462年(大明6年)9月、尚書左僕射に任じられた。さらに徐州刺史・徐州大中正・崇憲太僕を兼ねた。464年(大明8年)、前廃帝が即位すると、特進・右光禄大夫の位を受けた。465年(景和元年)9月、督南豫州諸軍事・安西将軍・南豫州刺史として出向した。同年(泰始元年)12月、明帝が即位すると、遵考は侍中・特進・右光禄大夫の位を受け、崇憲太僕を兼ねた。466年(泰始2年)1月、崇憲太后が死去すると、遵考は太僕の任を解かれた。469年(泰始5年)、幾杖を賜り、大官として時節に珍味を賜り、疾病について太医の診察を受けて薬を与えられた。幾杖については固辞した。472年(泰予元年)4月、後廃帝が即位すると、遵考は左光禄大夫の位を受けた。473年(元徽元年)6月、死去した。享年は82。左光禄大夫・開府儀同三司の位を追贈された。諡は元公といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉遵考」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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