|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 劉 : [りゅう] 【名詞】 1. axe 2. kill ・ 華 : [はな] 【名詞】 1. flower 2. petal
劉 鎮華(りゅう ちんか)は、中華民国時代の軍人。河南省・陝西省一帯で活動した鎮嵩軍の統領として知られる人物。最初は北京政府、後に国民政府(国民革命軍)に参加した。字は雪亜。 == 事績 == === 鎮嵩軍統領 === 清末の附生で、後に直隷省の保定府法政専門学堂の監獄科で学ぶ。卒業後は河南省法政専門学堂の庶務長をつとめた。 辛亥革命の際には、河南省の視学の身分で豫西(河南省西部)一帯を奔走して、反清活動に参加し、幇会(民間秘密結社)や遊侠の士と交流した。革命派の陝西軍政府が成立すると、劉は民軍を組織して同軍政府の率いる軍に加わる。これにより、大都督府書記官に任命され、さらに参議に昇進して対外交渉事務を担当した。 中華民国成立後、陝西軍政府は軍縮を迫られたため、劉鎮華率いる軍は豫西22県に移る事になった。張鈁の推薦もあって、劉は袁世凱から豫西監察使(後に道尹)兼鎮嵩軍統領に任命された。鎮嵩軍とは、嵩山の近くを根拠地としたことから命名されたものである。これにより、劉は豫西に割拠し、勢力を確立することになった。 1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、劉鎮華は袁世凱を支持した。1916年(民国5年)6月に袁が死去して後は、劉は安徽派に与している。 1917年(民国6年)9月、陝西省の革命派軍人胡景翼が、孫文の側近于右任を迎え入れ、護法戦争に参加する陝西靖国軍を組織する。これにより胡は、安徽派の陝西督軍陳樹藩に対抗した。1918年(民国7年)2月、劣勢となった陳は、陝西省長の地位をもって劉鎮華に援軍を打診する。劉は鎮嵩軍を率いて西安に駆けつけ、3月に陝西省長に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉鎮華」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|