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劉 隆(りゅう りゅう、? - 57年)は、後漢の武将。字は元伯(げんはく)、長沙定王劉発の子の一人である安衆康侯劉丹の子孫の安衆侯劉㱈・劉崇の一族(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第16位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==略歴== 30歳前後にして長安で学んだ〔『後漢書』の記述。居摂1年=西暦6年に6歳なれば、30歳になるのは西暦30年になり、西暦6年に1歳なれば、30歳になるのは西暦35年になり、劉玄から騎都尉に任じられるのが西暦24年以前なれば、この記述は誤りである。〕。更始帝こと劉玄より騎都尉に任命されるが、更始2年(24年)、劉秀が河内にいることを聞き付け、直ちに合流して騎都尉を拝命した。馮異とともに洛陽の劉玄軍と対峙した。 建武2年(26年)、亢父侯に封ぜられた。呉漢に率いられ、鄴の近郊で農民反乱集団の檀郷を討った。 建武4年(28年)、誅虜将軍を拝命し、淮南で称帝した李憲を討ち平らげた。また、荊州の武当で屯田した。 建武11年(35年)、公孫述を攻める岑彭の上書により南郡太守となり、一年余りで将軍の印綬を返上した。 建武13年(37年)、食邑を加増され、竟陵侯に封ぜられた。この頃、全国の地方官が当地の豪族と結託し、墾田・戸籍について不実申告をなすことが横行していた。建武16年(40年)、劉隆も不実申告の罪に坐した。同罪の十数人は死罪となったが、劉秀は隆の功績により許して庶人の身分とした。 建武17年(41年)、また封ぜられて扶楽郷侯となった。中郎将に任命され、伏波将軍・馬援の副将として交趾の徴姉妹を撃つ。徴弐を捕らえ、斬首千余級、2万余人を降す。帰還すると長平侯に封ぜられた。 建武20年(44年)、大司馬・呉漢が逝去し、劉隆が驃騎将軍として大司馬を代行した。法に則って務めること8年、将軍の印綬を返上して辞職した。列侯として朝請を奉じた。 建武30年(54年)、慎侯に封ぜられた。 建武中元2年(57年)、逝去し、靖侯と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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