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劉 震寰(りゅう しんかん)は清末、中華民国の軍人、政治家。広西派(桂系)の指導者の1人だが、陸栄廷らの旧広西派とも、李宗仁らの新広西派とも言い難い人物である(ただし、活動時期は旧広西派に該当する)。また、初期の中国国民党(以下、国民党とする)を支えた軍指揮官の1人でもある。旧名は瑞廷。字は顕臣。 == 事跡 == === 清末から二次革命まで === 柳州の大地主の家庭に生まれた。1906年(光緒32年)、馬邑両等小学堂高級班に入学する。1909年(宣統元年)、桂林の広西優級師範学堂に入学した。在学中に革命活動に憧れ、宣統3年(1911年)に広州へ移り、堂叔(父方の従兄弟で父より年少の者)の劉古香の紹介で中国同盟会(以下、同盟会とする)に加入した。その後、故郷の柳州に戻る。自家の財産を売って革命活動経費とし、沈鴻英などの匪賊と秘密裏の組織を築いたりした。 同年10月に武昌起義が発生すると、劉震寰は同盟会柳州支部長王冠三や沈鴻英と共に呼応して蜂起する。11月には柳州の独立を宣言して、劉は民軍支隊司令に推戴された。1912年(民国元年)元旦に、劉古香が柳州に戻って右江軍政分府総長兼統領となり、劉震寰は幇統として民軍の編制・訓練を司った。2月、陸栄廷が広西都督に就任すると、劉古香は広西陸軍第5統領として柳州に駐屯し、劉震寰は第5統領部幇統となった。 1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、劉震寰は即座の挙兵を主張する。しかし、劉古香は躊躇して決断できなかった。そこで劉震寰は強硬措置をとって劉古香を駆逐し、9月12日に二次革命に呼応して挙兵した。ところが、その2日後に腹心と恃んでいた沈鴻英が劉震寰に叛逆してしまう。万事休した劉震寰は、香港へ逃亡し、さらに出国して南洋で革命派の活動を続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉震寰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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