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加々美荘(かがみのしょう)は甲斐国(山梨県)の荘園。現在の南アルプス市加賀美・鏡中条付近に所在していたと考えられている。 == 加々美荘の立荘と伝領 == 加々美荘に関する初見史料は建永元年(1206年)慈円起請文・『門葉記』〔『鎌倉遺文』 - 1659号〕で、鎌倉時代の建永元年に藤原忠通の子で天台座主の慈円が「小僧養育禅尼」から加々美荘を譲られている〔秋山(2003)、p.139〕。同史料に拠れば慈円は前年に三条白川坊(京都府京都市東山区)から東山大谷の吉水坊に移した青蓮院の道場・大懺法院(だいせんほういん、後に改称して「大成就院」)に加々美荘を付属させ、年貢布二百段を禅尼の菩提供養と、大懺法院経営の資に充てさせたという〔秋山(2003)、p.139〕。「小僧養育禅尼」は閑院流・西園寺家の祖である藤原通季の娘で藤原経定の妻であった人物で、久寿2年(1155年)出生の慈円の乳母になっていたと考えられている〔秋山(2003)、p.140〕。 「養育禅尼」の父・通季は天皇家と関わりの深い人物であるが甲斐国との接点は見出されていない〔秋山(2003)、p.140〕。一方で慈円の父は甲斐国と関係の深い藤原忠実の子・忠通であることから、忠実の時代に加々美荘が摂関家領となり、一代限りで「養育禅尼」に譲与され、「小僧養育禅尼」の死後に慈円に譲与された経緯が考えられている〔秋山(2003)、p.140〕。 また、建暦3年(1213年)2月慈鎮所領譲状・『華頂要略』〔『鎌倉遺文』 - 1974号〕に拠れば、健暦3年に慈円は天台座主を辞するにあたって青蓮院門跡・朝仁親王への所領譲状案を作成しており、「別相伝」の極楽寺領とされている。天福2年(1234年)の慈源所領注文では大懺法院の後身である大成就院領として准布三百段の負担が定められており、鎌倉時代には青蓮院門跡領であったと考えられている〔秋山(2003)、p.140〕。 建武3年(1336年)9月17日勧修寺寺領目録(「勧修寺文書」)に拠れば、南北朝時代の建武3年には京都市山科区に所在する勧修寺領として見られる〔秋山(2003)、p.140〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加々美荘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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