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貞享騒動(じょうきょうそうどう)とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。 == 経緯 == 1686年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作であったが、松本藩は年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行った(1斗=18.039リットル、1升=1.8039リットルに換算)。周辺藩の基準は1俵あたり2斗5升であり、1.4倍以上(軽度の脱穀作業も求められたため)という著しい増税状態となった。 安曇郡長尾組(組は藩領を分割する大単位、現在の長野県安曇野市三郷・堀金地域)中萱村の元庄屋、多田加助(嘉助)を中心とした同志11名は、ひそかに中萱の熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練った。その結果松本の郡奉行所へ行って直接郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める5か条の訴状を提出することになった。実行日は10月14日。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなった。 当時の藩主、水野忠直は、参勤交代のため不在であった。事態を重く見た城代家老は、早々に騒動を収拾するべく、10月18日に多田加助ら百姓側の要求をのむとして引き取らせた。そして、翌19日の夜組手代らに年貢減免するとの回答書を手渡した。一方、江戸表の藩主に早馬で注進。藩主の裁可を得た上で年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者の捕縛に臨んだ。最終的には11月22日、多田加助とその一族、同志は、安曇郡(中萱村、楡村、大妻村、氷室村)の者は勢高刑場で、筑摩郡(三溝村、堀米村、浅間村、岡田村、梶海渡村、執田光村)の者は出川刑場で、磔8名(加助、善兵衛含む)、獄門20名の極刑に処された。処刑された者の中には加助の参謀格であった小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも含まれる(当時の習慣としては女子が処刑されるのは異例)。さらに、善兵衛の妻さとが正月明けに出産した男児にも死刑宣告が下された(ただし、翌月にその男児が病死したため処刑とはならなかった)。騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったが、元通りの3斗に引き下げられることになる。 一説には、江戸詰であった鈴木伊織という一藩士が多田らへの仕置きに反対し、藩主から処刑中止の許しを得たという。鈴木は自ら騎馬で伝達に走ったが、松本に入った付近で乗馬が倒れ、鈴木自身も昏倒したために処刑に間に合わなかったという。馬が倒れた場所は「駒町」として地名に残っている。鈴木は領民保護に尽力した事で知られ、その徳を讃え名付けられた「伊織霊水」という井戸が松本市内に復元保存されている。 また、勢高刑場は現市立丸ノ内中学校付近もしくは敷地内であり、校長室には嘉助騒動で処刑された遺体の発掘状況を記した模型が存在する。なお、中学校は松本城を見下ろす高台にあり、敢えて松本城を望む状況で処刑されたことが分かる。多田は刑死の際に松本城を睨みつけ、その瞬間に天守閣が傾いたという伝承が残る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貞享騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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