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加治田城(かじたじょう)は、美濃国(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城。別名、却敵城・加治田山城・古城〔『富加町史』「現在の富加町加治田上之屋敷に在り。古城山と言う。海抜270m、一名却敵城とも言う。屋敷城はその麓にあった。」〕。 美濃国と飛騨国(現:下呂市金山町)の道をつなぐ重要な街道で中濃に位置し、西濃(岐阜城)・東濃(苗木城)・奥美濃(郡上八幡城)の中間位置としての要所であった〔『金山町誌』、金山町誌編纂委員会、下呂市、84頁「加治田が飛騨路の要衝」「古来から加治田は町場としての要地であった」「加治田を飛騨路の駅に想定した理由」〕。濃尾平野の北に位置する。 == 歴史 == 加治田城は、築城時期は不明であるが、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられている。 佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国の織田氏に内応。そのため永禄8年(1565年)に、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退している。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、利堯の動向により(1582年~1583年)にかけて領土は森氏が統合した〔利堯は7月に『堂洞軍記』では病死、『兼山記』では討ち死したとされているが、実際には加治田城陥落後も生存が確認されている。(斎藤利堯の項参照)〕。 その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にした。廃城後、城下町は宿場町として栄えたといわれている(昭和初期まで)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加治田城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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