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加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年 - 1977年)は、戦後フィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放に尽力した日本の洋画家。本名辰夫。島根県能義郡布部村(現在の安来市広瀬町布部)出身。 == 人物 == 1926年(大正15年)に上京して川端画学校および本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事し、前田寛治・佐伯祐三らと交友を深めた。 1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に出品し、後に会友となる。翌年から1937年まで浜田の小学校に赴任し、児童の指導にあたるかたわら、中尾彰らと本格的な洋画研修会を開き、東京から中山巍を招いて指導を仰いだ。これによって、中央の画壇と浜田の画家たちが初めて結ばれた〔『加納莞蕾と平和』 しまねミュージアム協議会共同研究紀要5、2015年3月刊行。〕。 1937年(昭和12年)3月、教員を辞して朝鮮半島に渡った後、翌年11月から1940年まで北支派遣牛嶋部隊本部付従軍画家として山西省における戦争の状況を描いた。その後、京城高等工業で教鞭をとる傍ら制作を続けた。終戦とともに帰国。 戦後、フィリピンの刑務所に戦犯として収容されていた旧日本兵の釈放助命嘆願をおこない、4年間に43通の釈放を訴える嘆願書をフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領に送り続け、「日本軍によって虐殺された大統領の愛児の名において憎しみを愛に変えることこそ神に帰依する行為である」と嘆願した。これによって、1953年に108名の日本人戦犯が全員釈放された。このほか、恒久平和を求める嘆願書をローマ法王やジャワハルラール・ネルーインド首相らに送り続けた。その数は280通に及ぶ〔加納佳世子 『画家として、平和を希う人として 加納辰夫(莞蕾)の平和思想』 メディアランド、2015年3月刊行〕。 さらに、世界中の子ども達の人権を守るべく、「世界児童憲章」の制定を訴え続けた。晩年は墨彩画や書を中心に作品制作を続けた。1977年(昭和52年)8月15日没。生家跡に安来市加納美術館が建つ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加納莞蕾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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