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加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 2010年5月16日)は、歌人。 == 経歴 == 京都府綾部市生まれ。旧制埼玉県立浦和中学校在学中に短歌を作り始め、若山牧水系の歌誌「菁藻」(主宰:髙橋俊人)に入会〔浦和中学校時代の作品や髙橋俊人との関係については以下に詳しい。髙橋みずほ「壁の「だるま」-少年克巳の手紙から 」『合歓』第42号、2008年10月。〕。1933年、國學院大學予科入学、1935年、國學院大學国文科進学、折口信夫、武田祐吉らの薫陶を受ける。在学中に新芸術派短歌運動に加わり「短歌精神」を創刊。1936年、若手歌人の集まり「四月会」に参加〔最年少者として参加。最年長は加藤将之。ほかに佐藤佐太郎、山口茂吉などが参加している。(「略歴」『天壇光』(短歌新聞社、1987年)他による)〕。1937年、第一歌集『螺旋階段』を刊行。1938年、國學院大學卒業。 その後応召し、敗戦まで軍隊生活を経験する。戦後は浦和中学校の教諭に復帰。1946年、常見千香夫、大野誠夫らと「鶏苑」を創刊、近藤芳美、宮柊二らと「新歌人集団」を結成〔1946年12月25日、加藤克巳、近藤芳美、山田あき、大野誠夫、山本友一、常見千香夫、山形義雄、中野菊夫などによって1回目の会合が持たれ、のちに、宮柊二や香川進、前田透などが加わる。翌年1月から月1回の会合を開き、会員の作品互評や先輩歌人の研究などを行うとともに、「新日光」創刊号(1947年4月)の編集参画、「短歌研究」新人特輯号(同年6月)の責任編集といった活動も行った。しかし、会合は1948年暮れには消滅しており、実質的な活動期間は2年にも満たない。(加藤克巳『新歌人集団』(角川書店、1982年)他による)〕 。1948年より家業である埼玉ミシン工業に勤務し、のち社長、会長。 1949年、「新歌人集団」解散後、「歌人懇話会」を開き、のち「作品研究会」とし、しばらく継承。1953年、「近代」を創刊し、主宰。1963年に「個性」と名を改め、2004年に終刊〔「個性」終刊後、会員の多くは、沖ななもらの「熾」(1993年創刊の「詞法」より2004年に改称)、久々湊盈子らの「合歓」(1992年創刊)、光栄堯夫らの「桜狩」(1985年創刊)に拠った。これらとは別に吉野裕之、髙橋みずほらの「BLEND」(2002年創刊、2007年終刊)がある。〕。 1956年、発起人として現代歌人協会を創立、理事を務める(1991年から1994年まで理事長)。1996年、宮中歌会始召人。この間、日本現代詩歌文学館振興会常任理事、埼玉県歌人会会長・顧問、埼玉県文化団体連合会理事長・会長・顧問、埼玉文芸懇話会会長、埼玉文芸家集団代表、さいたま文学館運営委員会常任委員、埼玉県立近代美術館協議会委員、埼玉県立自然史博物館協議会委員、与野市教育委員などを歴任。 シュールレアリズムの影響を受けた作風が特徴〔加藤自身は、たとえば「詩の方法、たとえばシュールレアリズムの方法など学び込んで、私は私なりの作品を作っていった」と語っている(加藤克巳「体験的自由律短歌論」『短歌現代』1986年9月号。)。また、光栄堯夫は、『加藤克巳論』(沖積舎、1990年)において、「加藤克巳とシュールレアリスム(『螺旋階段』から『球体』へ)」の章を設け、加藤克巳とシュールレアリズムについて考察している。加えて、吉野裕之は「短歌におけるキュビズム 」(『BLEND』第3号、2003年4月)において、歌集『球体』の作品を素材に短歌におけるキュビズムの可能性について考察している。〕。門下に、佐藤信弘(1976年に加藤克巳研究のスタンダード『加藤克巳の世界』を上梓している)、筒井富栄、光栄堯夫、沖ななも、久々湊盈子、吉野裕之、髙橋みずほなどがいる。 2010年5月16日に心不全のため死去。。23日、浦和斎場(さいたま市桜区)にて告別式。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤克巳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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