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加藤 勝信(かとう かつのぶ、1955年11月22日 - )は、日本の政治家、大蔵官僚。自由民主党所属の衆議院議員(5期)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当、男女共同参画担当)及び一億総活躍担当、女性活躍担当、再チャレンジ担当、拉致問題担当、国土強靱化担当〔。自由民主党岡山県連会長。 内閣府大臣政務官(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、自由民主党総裁特別補佐、川崎医療福祉大学客員教授、内閣官房副長官(第2次安倍内閣)、内閣人事局長を歴任。 == 来歴 == 岡山県倉敷市に生まれ、東京都杉並区で育つ。父・室崎勝聰は日野自動車工業社員(のち取締役副社長)。東京都立大泉高等学校、東京大学経済学部を卒業、1979年に大蔵省入省。倉吉税務署署長、主計局主査(労働予算担当)、主計局主査(防衛予算担当)等、本省勤務の他郵政省、内閣官房、農林水産省への出向も経験。農水大臣だった加藤六月の娘に婿入りし加藤に改姓〔「週刊新潮」2015年5月21日菖蒲月増大号〕。1995年、大蔵省大臣官房企画官を最後に退官。退官後は六月の秘書を務める。 1998年、第18回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区(定数2〔第19回参議院議員通常選挙より定数1。〕)から無所属で出馬したが、得票数4位で落選(岡山県選挙区からは江田五月、妻の従兄弟にあたる加藤紀文が選出)。2000年の第42回衆議院議員総選挙に自由民主党から比例中国ブロック単独7位で出馬したが、再び落選。なおこの時、当初は義父・加藤六月の地盤であった岡山5区から民主党の公認を受けての出馬を模索していたが、直前で岡山県選出の橋本龍太郎元首相の誘いを受け、自民党に鞍替えした(岡山4区で橋本のライバルだった義父・加藤六月は出馬せず、引退)。その後、川崎医療福祉大学客員教授に就任。 2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例中国ブロック単独3位で自民党から出馬し、初当選。当選後は橋本龍太郎が会長を務める平成研究会に入会する。2005年の第44回衆議院議員総選挙では再度岡山5区からの出馬を党本部に強く希望したものの、党本部は村田吉隆を公認。加藤に対しては郵政民営化法案に反対した平沼赳夫の選出選挙区である岡山3区からの出馬を要請したが、加藤ははこれを拒否し、無所属での出馬を表明した〔。しかし、共倒れを危惧した党本部が仲裁に入り、コスタリカ方式による出馬で決着させて保守分裂選挙を回避し〔、村田、加藤のいずれも当選した。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府大臣政務官に任命され、福田康夫内閣でも再任。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では、前職の村田吉隆が引退を表明したため、岡山5区から出馬し、民主党新人の花咲宏基を下し3選(花咲も比例復活)。2012年9月の自由民主党総裁選挙では安倍晋三の推薦人に名を連ね、総裁に選出された安倍の下で総裁特別補佐及び自民党報道局長に就任。同年12月に発足した第2次安倍内閣で額賀派所属ながら内閣官房副長官に起用された。2014年5月、内閣人事局発足に伴い初代内閣人事局長に任命された。自由民主党所属議員による「文化芸術懇話会」の結成に顧問格として〔「安保強行で支持率低下、安倍内閣をウラで操る「日本会議」「神道政治連盟」の目的とは?」、NONEY VOICE, 2015年7月14日 〕参画しており、多数の報道規制発言等の問題が報じられた2015年6月25日の会合にも出席していた〔「自民勉強会発言――安保国会新たな火種」『毎日新聞』50135号、14新版、毎日新聞東京本社、2015年6月27日、3面。〕。 2015年(平成27年)10月7日に発足した第3次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策担当、男女共同参画担当)及び一億総活躍担当、女性活躍担当、再チャレンジ担当、拉致問題担当、国土強靱化担当として初入閣。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤勝信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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