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加藤が1923年8月24日に在任のまま死去すると、外務大臣の内田康哉が総理を臨時兼任して同年9月2日まで事務を取り扱った。 == 概要 == 高橋内閣の総辞職後、元老会議は立憲政友会の内紛を理由に高橋以外の人選を進め、加藤を後任として推挙したが、現役海軍大将である加藤は衆議院における政治基盤の無さを理由にこれを辞退する。一方、政友会では高橋是清総裁(前首相)・岡崎邦輔・山本悌二郎の両総務・横田千之助幹事長が会談を開き、加藤辞退の場合には候補者不足のために憲政会の加藤高明が推挙されることが予想されたことから、加藤友三郎に対しては「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向を伝え、一方元老会議で発言力のある松方正義に対しては床次竹二郎を派遣して加藤高明への大命降下反対の意向を申し出た。このために漸く加藤も組閣を決断した。 海軍大臣を兼務した加藤の主導で軍縮が行われ、ワシントン海軍軍縮条約に従って主力艦14隻を廃止、一部を航空母艦に改造した。このため、陸軍も軍縮に踏み切らざるを得なくなり、5個師団の削減(「山梨軍縮」)とシベリア出兵の中止を決めた。ただし、浮いた予算は装備の近代化と国債償還などに充てられた。また、水野錬太郎内務大臣を委員長とする「衆議院選挙法委員会」を立ち上げて、その答申を元に1923年2月に普通選挙法案を提案するが、与党政友会の反対で否決された。 1923年(大正12年)8月24日、加藤の急逝(公式発表は25日)により内閣総辞職すると共に、後継政権が発足するまでの間、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として国政の指揮を執った。 加藤友三郎は逝去後、元帥が追贈された。 後継総理を選定中の同年9月1日、関東大震災が発生する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤友三郎内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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