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加藤 嘉(かとう よし、1913年1月12日 - 1988年3月1日)は、日本の俳優。本名は名前の読みが「ただし」。音読みで(かとう か)と呼ばれることもある。 映画やテレビドラマで名脇役俳優として活躍し、善悪様々な役をこなした性格俳優のひとり。今井正、山本薩夫、内田吐夢、今村昌平、野村芳太郎ら多くの巨匠監督に重用され、出演映画総数は300本を越える。前妻は山田五十鈴、後妻は女優の中村雅子。 ==来歴・人物== 1913年(大正2年)1月12日、東京市芝区新堀町(現在の東京都港区芝)に生まれる。祖父は材木商をしていたが、父の加藤助次郎は無職で不動産収入をもって生活していた。母は長子で、その長男だった。妹が一人いたが、早くに亡くなっている〔キネマ旬報1979、p.159〕。鎌倉師範付属小学校から慶應義塾商工学校に入り、後慶應義塾高等部に進む〔。在学中、先輩の徳大寺伸が主宰するアマチュア劇団・学生舞台に誘われ、劇団の公演に助っ人として参加する〔〔『時事百科』、小学館、1984年、p.422〕当時は俳優になるつもりはなく、山岳部の活動をしながら学生生活を送っていたが、ラグビー部員に刀の鍔で殴られて失明状態になり、僅か1年で高等部を中退している〔。目は半年後に回復し、その後は素人劇団に出演していた。 1934年(昭和9年)1月、東京宝塚劇場の専属俳優募集の広告を見て俳優を志し、既成俳優を含む1300人の応募者から男16人、女9人の合格者の中に選ばれる〔。合格者の中には谷幹一、森野鍛冶哉、伏見信子、伊藤雄之助らもいた〔キネマ旬報1979、p.160〕。しかし、大部屋生活に不満を持ち、それまで関心のなかった新劇を見るようになる。反戦劇に共鳴し、西欧近代劇や社会主義の本を片端から読みあさっていた。 1936年(昭和11年)、新築地劇団付属研究所に入所、同期に殿山泰司、千秋実、多々良純らがいる。同劇団での初舞台となった水谷八重子主演の『女人哀詞』で茶店の親爺役を演じ、23歳にして早くも老け役を演じている〔。翌1937年(昭和12年)4月、研究所を卒業して正式に座員となり、『桜の園』『土』『どん底』などの作品に出演して頭角を現す〔。 1940年(昭和15年)、新劇弾圧により薄田研二、本庄克二ら多くの劇団員が検挙され、加藤も築地署に1週間ほど留置され、劇団は解散させられた。翌1941年(昭和16年)、南旺映画製作の『流旅の人々』で映画に初出演する。同年5月、井上演劇道場・水谷八重子一座合同劇に水谷の相手役として出演〔。1942年(昭和17年)には明治座にも出演し、やがて井上正夫主宰の井上演劇道場に入るが、1943年(昭和18年)に応召。横須賀海兵団に入隊し〔加藤嘉 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年8月11日閲覧〕、海軍経理学校の警衛分隊に勤務するうちに終戦を迎える〔。 1946年(昭和21年)、道場を解散して第2次新協劇団に参加した井上に従って同劇団に入るが、1947年(昭和22年)に東京芸術劇場公演『林檎園日記』にフリーの立場で出演したのを機に、同年7月28日に滝沢修、宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加し、旗揚げ公演の『破戒』に出演〔。1950年(昭和25年)には劇団民藝(第二次民藝)創立に参加し、『その妹』等に出演するが、翌1951年(昭和26年)に民藝を退団〔。以降は活躍の場を映画に移したが、1965年(昭和40年)には文学座に入り、『女の一生』『五稜郭血書』などの舞台に立った。 戦後の映画初出演作は吉村公三郎監督の『わが生涯のかがやける日』で、1950年代は山本薩夫監督の『真空地帯』などの独立プロ映画に出演。やがて東映専属となり、『警視庁物語』『少年探偵団』などのシリーズ作や、内田吐夢監督の『どたんば』『飢餓海峡』、関川秀雄監督の『爆音と大地』などに出演。今井正監督『米』の延縄漁師役、山本薩夫監督『白い巨塔』の大河内教授役、今村昌平監督『神々の深き欲望』の離島の区長役などで迫力ある演技を見せている。 中でも野村芳太郎監督『砂の器』では、ハンセン病を患う和賀英良の父親役を回想シーンで生死の狭間を演じ、鬼気迫る演技を見せた。また、神山征二郎監督の『ふるさと』では痴呆老人を好演し、モスクワ国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞した。 私生活では、4度結婚した。1番目の妻との間に女子、2番目の妻との間に男子と女子を儲けている。1950年(昭和25年)に山田五十鈴と3度目の結婚をし、1952年(昭和27年)に夫婦で現代俳優協会を結成している〔山田五十鈴『山田五十鈴 映画とともに』、日本図書センター、2000年、p.161〕。しかし、3年で離婚した。1958年(昭和33年)に『米』で親子役として共演した22歳年下の中村雅子と再婚し、女優の加藤千代を儲けた。 1988年(昭和63年)2月29日深夜、自宅の寝室で倒れ、救急車で運ばれたが翌日3月1日になって間もなく搬送先の病院で脳卒中のため永眠した。。 加藤は演じる時に極度のあがり症であったことを、当時ドラマで息子役を演じていた児玉清に告白している〔児玉清『負けるのは美しく』、集英社、2005年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤嘉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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